「嘉吉の乱、終焉の地を訪ねる」
JR播磨新宮駅〜祇園嶽〜城山(きのやま)城〜新龍アルプス〜鶏籠山〜JR本竜野駅
  06年11月30日(木)

国土地理院地形図:「龍野」25000分の1を参照して下さい。

 JR播磨新宮駅付近からJR本竜野駅に至る区間、揖保川に沿って南北に伸びる3、400mの山の連なりがある。
通称「新龍アルプス」と呼ばれていて、また随所で展望地に恵まれており、かなり魅力的なトラックといえる。

 また道程には城山城(きのやまじょう)、龍野城などの異なる時代の複数の城跡も探訪することができ、歴史好きの人にとっても興味深い。
しかし、その歴史とはまさに悲劇そのものであり、播磨の郷土史により興味を持たれている方ほど、より粛然というか感傷的な気分になると思う。



 いつの時代の出来事でも言えることだが、全時代を詰め込まされる日本史の授業だけでは物事の内面までは伝わってこない。
山歩きのレポをしながら、この山域で実際に起こった戦について詳述していくつもりであるが、教科書風に簡潔に記すとこのようになる。

1441年(嘉吉元年)6月24日、京の赤松邸において将軍足利義教が赤松満祐により暗殺される。
細川、山名など諸大名によって播磨に追討軍が派遣され、同年9月10日城山城において進退窮まった満祐が自害する。これを「嘉吉の乱」という。



 播磨が歴史の表舞台に出てくるとしたら、06年大河ドラマでも触れた秀吉による三木合戦がまず挙げられるだろう。
三木城に立て篭もった別所家は赤松家の庶流家であり、嘉吉の乱とは無関係なようでも、ある意味話にはつながりがある。
しかし、個人的にはそれよりも140年遡る、この嘉吉の乱のほうがよりドラマティックに思える。それほど複雑な思惑が絡み合っていた事件だったのである。


上記の地形図と併せて、この山域を歩かれる前に以下の書籍を熟読すると、より充実した山歩きになると思われる。

1.神戸新聞総合出版センター 
「はりま 歴史の山ハイキング 電車・バスで日帰りできる30コース」 P.86 城山、P.90 祇園嶽、P.94 鶏籠山と的場山

2.サンダセレクションプレス(SSP出版) 
「嘉吉の乱始末記」 ← 赤松家側からの視点で。

3.但馬文学会 
「小説 山名宗全」 ← 山名家側からの視点で。

 1は最近購入、2、3は数年前にジュンク堂で購入していた書籍。購入当時は山歩きに興味が無く、実際に城山城へ登ってみようとは思いもしなかった。





 前回、六甲の土樋割峠で長年使ってきた三脚が壊れたので、今日は購入したばかりの新しい三脚を初めて使うことになる。
これまでより視点の高低差、設置場所の幅が大きく広がるので、より効果的に臨場感をお伝えできるのではと思う。

6:03 JR姫路駅発。姫新線の1両編成のディーゼルカーに乗る。列車はのんびりと龍野へ向かう。姫新線に乗ったのはこれが初めてだ。旅情ムードが漂う。

6:43 JR播磨新宮駅着
 車掌兼運転士に切符を渡して下車。姫新線はイコカ、ピタパカードは使えないので要注意。
姫新線は殆どが無人駅で、この播磨新宮駅も例外ではない。
まだ薄暗いが、山裾に辿り着くまでには充分明るくなっているだろう。


播磨新宮駅出発

 今日は平日なので都市部ではそろそろラッシュの時間だが、ここはすごく静かである。
最初の目的地である祇園嶽の登山口までけっこう距離があるが、道筋はそれほど難しい
ものではない。上記「はりま 歴史の山ハイキング」では街中のアクセス路についても
詳述されている。
 駅前から正面突き当たりの3差路で渡って左折。材木店横の小道を進む。
栗栖川が見えたら左岸へ渡って、しばらく川沿いに南下。次第に民家が途切れ、
行く手には今日歩く山塊の全貌が見えてくる。川の向こうの右岸に新宮高校看護専攻科が
見えてくると、その前にある橋を渡る。あとは農道で祇園嶽の麓の市野保の集落を目指す。


6:52 新龍アルプスの全貌。頭の部分となる鶏籠山がここからだとちょっと小さいが、
「寝釈迦」に擬えられるといわれている風景は、龍野が初めての自分にとってたいへん情緒的に思える。
間違いなく播磨を代表する景観の一つに数えられるだろう。あの峰峰を歩くのか〜と縦走に対しての
期待感が大きく膨らむ。

 龍野の美しい景観が、この前の裏六甲のように高速道路で景観が台無し、なんてことにならないように
選挙権を持つ我々が目を光らせなければならない。
政治に興味が無いからと投票に行かなければ、福島、和歌山、宮崎他のように組織票で決まってしまい、
税金をムダに使われることになる。肝心なことは多選を防ぐことだと思う。水が流れなければ腐ることと
全く理屈は同じだ。国政レベルでも、今道路特定財源の一般財源化が検討されているが、いつものことながら
「必要な道路は造る」という逃げ道が用意されている。どの地方も必要だと言うに決まっているではないか。
我々国民がよほどしっかりしないと、借金をどんどん増やしてでも、美しい景観は見る間にムダな大工事に
よって蹂躙されていくだろう。
話は少し逸れたが・・・

 この山域を歩かれる際は嘉吉の乱について知っていたほうが絶対に良いと思う。これから出来るだけ
簡略に記していくが、もし既にご存知である方は読み飛ばして下さい。





 「嘉吉の乱終焉」に至るまで(その1。 城山城攻防戦が始まるまで) (※ 書物によって相違点有り。自分の解釈なので、細かい誤りはあるかもしれません。)

 足利幕府は実に微妙なバランスの上に成り立っていた幕府であり、将軍義教は傾きかけた幕府の権威を専制政治により立て直そうと考えた。
幕府を頂点に三管領(細川、斯波、畠山)、そして四職(山名、赤松、京極、一色)が幕府を一致して支えていたのであるが、義教の強権政治により
綻びが生じ始める。それぞれの家で惣領家と庶流家の争いがあったが、それへの積極的な介入である。義教は将軍の権威を知らしめようとしたようであるが、
効果は全く逆の形となって現れる。そして義教から冷遇された一人、赤松満祐によって暗殺されてしまうのである。
 満祐にしてみれば、精一杯奉公してきたのに、くじ引き※で選ばれた将軍などに先祖伝来の地を割譲させられ、そしていずれ誅殺されるのではという、
危機感と屈辱感があったと思われる。しかし客観的に見れば満祐は細かい気配りは苦手な人物だったという。

※ 足利義教は何とくじ引きで将軍に選ばれた。確立は4分の1。現在でも、入札をくじ引きで行っていた自治体があったが今に始まったことではないのだ。

 諸大名の中には満祐と懇意にしている者もあり、また義教自身の評判も手伝ってか、将軍暗殺という大逆を前にしても赤松追討軍が組織されるまでの
動きは鈍かった。しかし唯一、但馬をはじめとして山陰一帯を治めていた山名持豊(後の宗全)は、これを機会として播磨を獲得するために積極的に動く。
過去数代に亘って、但馬の山名と播磨の赤松は仇敵、宿敵であったのである。特に山名からみれば明徳の乱での怨恨が強かった。心理的にも
山また山の但馬からみれば、播磨の広い平野はたいへん魅力的に見えただろう。

 将軍義教の首と共に播磨へ戻った満祐は動きの遅い諸大名のおかげで、迎撃体制を整えることが出来た。書写坂本城(姫路市)を本城として、
諸軍勢を播磨の各地に分散派遣する。
最も多勢の敵を迎えることが予想される須磨、明石(大手口)には嫡子教康を総大将に精鋭を派遣。他、備前からの侵入口にあたる三石城、
強敵である山陰の山名勢への備えとなる大山口、粟賀口、戸倉口へも・・。
 元々評判の芳しくない将軍だっただけに、追討軍の動きも鈍く、時間を稼げばあわよくば流れが変わる、という読みもあったのではと思われる。

 こうして曲がりなりにもようやく組織された赤松追討軍。7月10日頃より大手口となる兵庫庫御所、人丸塚、和坂では一進一退の激戦が繰り広げられる。
 一方、少し遅れて7月下旬に但馬を発した山名勢は破竹の勢いで南下。大山口、粟賀口の備えもあっけなく攻略。そのまま市川沿いに南下すれば
坂本城まですぐである。また西方の美作、備前方面からも別の幕府軍が播磨へ追撃を開始していた。
 ここに至って満祐は戦略の転換を決める。各地の諸軍勢をまとめての城山城篭城である。赤松家の本城としては白旗城がまず挙げられるが、周辺の
美作街道はこの時点で既に幕府軍に押さえられており通行不可能であったようだ。

 こうして9月初めから城山城とその周辺での攻防戦が始まる。後のない赤松勢は寡兵ながらもよく戦うが、所詮は多勢に無勢であり、戦闘開始から
1週間を経過する頃になると幕府軍による城山城の包囲網は完成する。といってもその実態は最前線に位置するのは山名勢のみ、他の諸軍勢は
もっと遠方か、一説によると細川勢は須磨付近から動かなかったともいわれる。


 


 新宮高校看護専攻科まで辿り着いたらあとは簡単だ。農地の間をまっすぐ西へ伸びる道路を進み、
広い車道に行き当たったら城山城周辺の大きな案内板、そして周辺の見どころを指し示す道標
(全て西を向いている)まで南下。既に西には市野保の集落、そして祇園嶽が大きく見えている。
集落の中の狭い道を行くが、辻々には道標がふんだんにあり、初めてのところでも非常にスムーズに
地図を見なくても確実に祇園嶽にアプローチすることが出来た。(もちろん「はりま歴史の山ハイキング」
を熟読していたこともあるが)

 集落を抜けると、祇園嶽の山裾を流れる護岸で固めた小川(山根川)に出てくる。
このまま川沿いに突き当りまで進むと祇園嶽登山口へ辿り着くが、その前に一つ手前の橋を渡って
「てんかさま」へ立ち寄ることにする。初めてでもある程度場所を頭に入れてあれば、要所には道標が
あるので難なく辿り着くことができる。


7:16 てんかさま

 お墓を想像していたら、木立に囲まれた立派な祠が立っていた。
 
町指定史跡 てんかさま(越部禅尼の墓)

 平安時代末期、この辺りは「千載和歌集」の選者として有名な藤原俊成の荘園でした。
 俊成は建久元年(1190年)に越部荘を三分割し、上荘を五条上(長女)、中荘を成家
(長男)、下荘を定家(次男)の三子に譲ります。
 五条上の娘(越部禅尼)は中将通具と結婚して二人の子をもうけますが、政変のため
夫と離別して子供を育てることになります。俊成は、これを不憫に思い、越部禅尼に母の
遺領の上荘を与えますが、禅尼の子供達が早世したため、禅尼は仁治二年(1242年)
頃都を離れ所領の越部上荘へ隠棲し、建長6年(1254年)にこの地で亡くなります。
亡くなった越部禅尼の供養のため、都より禅尼のお供として来られた榊原家により後年
祠が建てられます。祠内には、鎌倉時代の石仏(如来立像)が安置されています。この
祠は「てんかさま」と呼ばれ、知恵の神様として香煙が絶えません。「てんかさま」とは、
定家ゆかりの人というのがなまって「てんかさま」となったと伝えられています。
 なお、越部禅尼は歌人としても有名で、『新古今集』には俊成卿の娘の名で
「橘のにほふあたりのうたた寝は 夢もむかしの袖の香ぞする」という秀歌を残しています。

 平成六年三月 新宮町教育委員会

 全く知らなかった。


 このてんかさまの南側に祇園嶽へ行けそうな小道があるが、少し奥でフェンスで閉じられて
いる。仕方なく歩いてきた道を戻り、本の通りに山根川沿いを突き当りの橋のあるところまで南下し、
北側へ引き返す。かなり遠回りする形にはなるが、安心だし間違いないであろう。


7:36 祇園嶽登山口 (水布弥谷コース)

 てんかさまから直線距離で歩けば数分もかからないと思うが、ぐるっと山根川沿いを
時計回りしてくる形になるので20分近くかかった。ここまでは幅広のやや荒れた林道
といった感じである。
 上記の写真にある「城山城・祇園嶽」の道標を見て左折。山腹に付けられたやや急な
トラックを登っていく。しばらくはジグザグ道が続く。やや不明瞭なところ、トラックを
見失いそうになるところ、紛らわしい獣道っぽい踏み跡があるので要注意だ。
それでも時折、マーキングがあるので心強い。

 しばらく登るとシダ藪っぽくなってきて尾根道になる。でもそれも長く続かずに
北斜面に沿う山腹道となる。


7:58 祇園嶽山頂が見え始める

 急傾斜の北斜面を登っていくと、右前方に祇園嶽の岩峰が大きく見えてくる。
いやが上にも大展望の期待が大きく膨らむ。
 しかし、その前に難関が待っていた。この辺りからひどい倒木地帯となっていたのだ。
ロープも駆使してどうにか通り抜けられるようにはなっているが、またいだりくぐったりと
忙しい。でも七種薬師(薬師峯)〜七種山間の倒木に比べたら数段マシではあるが・・。
登り始めからなかなか難路ではあったが、今日の行程中で倒木に悩まされたのは幸い
ここだけだった。


8:10 小さな峠に辿り着く

 倒木地帯をどうにか突破してようやく祇園嶽南の鞍部というか峠に辿り着く。
ここは十字路になっていて、一つで足りるのに道標が2つもある。とにかく
途切れなく続いた登りのために乱れた息を整える。

 ここから「祇園嶽、出城まで300m」とある。ここまで来れば祇園嶽まであと少し。
一応、コンパスで進行方向を確かめてから祇園嶽へ向けてスタートする。


8:20 祇園嶽、出城分岐

 峠から10分とかからずに祇園嶽山頂直下まで到達。城山城・出城まで80m、
祇園嶽まで50mとある。とりあえずは祇園嶽の展望を先に見ておこう。
分岐を過ぎると急に岩場になって、もう山頂が近いことが充分伝わってくる。


8:24 祇園嶽山頂

 短い岩場を登り詰めたところには、今日一つ目の三角点が待っていた。(三等三角点)
三角点の周囲は雑木に囲まれている。隣にはここに神社があったことを示す石柱がある。

・・・(石柱が折れている)・・・・・四十二年四月公布ニヨリ
・・・(石柱が折れている)・・・・??越部八幡神社ヘ遷座ス

とある。市野保集落手前の大案内板によると、江戸時代までここに祇園社という神社が
あったという。参拝に来るのもたいへんだったろう。

 三角点と石柱の向こうには絶壁の上の大展望が待っていた。


祇園嶽、絶壁の山頂

 素晴らしい!としか言いようのない山頂であった。
 ちょっと薄曇が残念だが、それでも遮るものの無い大展望。
揖保川が視界の中央を流れ、周囲は田園風景が広がっている。時折、姫新線の列車の
警笛が響き、何だか旅情ムードまでたっぷり。これは六甲山系では味わえない感覚だ。

 傍らの祇園嶽の山名板は神戸ツキワ登山会が2005年7月3日に設置したもの。
ずっと南の的場山まで同日設置の山名板があった。7月の暑い最中によく縦走されたなぁ
と感心するが、必要と思われる情報は山の名前だけであって、登山会名と歩いた日付は、
他の人にとっては不必要な情報だと思う。
 ちなみに自分は団体行動には体が拒否反応を示すので、これからもどの登山会に属す
こともなく、真の単独ハイカーを続けるだろう。


 絶壁に上に立ってみると、まるで箱庭のような下界が広がる。
朝から歩いてきた播磨新宮駅から市野保の集落までが手に取るようである。


 南にはこれから向かう城山城が。
きのやまには知っているだけでも3通りの字がある。「城山」、「亀山」、「木山」。いずれもが
正しいが、国土地理院地形図では「亀山」となっているので山の名前は亀山で、城の名前は
城山城で通すことにする。読み方はいずれも(きのやま)なので念のため。

 一気に気に入ってしまった祇園嶽山頂にも悲しいことにゴミがあるので回収作業をする。
吸殻が何本かあったが、少し離れたところにはタバコの空き箱がそのまま放置してあった。
自分がタバコが大嫌いな理由は煙たい(しかも有毒)こと以外に、ポイ捨てが目に余ることだ。
まして山に捨てられると余計に腹が立つ。ゴミはゴミ箱へ捨てるという簡単かつ常識なことが
どうして出来ないのか不思議でしょうがない。吸殻を見ている子供達への影響も心配だ。

 とりあえず気付いたものは全て回収して、祇園嶽山頂をきれいにした後で元来た道を
下る。城山城へ向かう前にその北の出城を見ておこう。
 分岐からは絶え間なくテープが設置されており、降り積もった落葉で踏み跡も何も無いが
簡単にトラックを辿っていける。


8:46 城山城・北の出城

 写真では分かりにくいが、祇園嶽山頂から西へ派生する尾根上に確認出来ただけ
でも3段にわたる削平地があった。昔は建物が建っていたのであろう。
 ここは城山城の北端に位置する。城の中心部からかなり離れているが、
戦端が開かれたのはこの付近であったという説がある。

 初めは祇園嶽の山頂にも城郭跡があるのではと思っていたが、神社があったために
遠慮したのか、もしくはせめて見張り所くらいはあったのかもしれない。

 3段の削平地を一通り観察。削平地の周辺は急斜面で、下から這い上がってくる
敵に矢を射掛ける光景が想像できる。そして突き当たりでも急斜面が始まっており、
トラックも終点になっていた。ここから分岐、そして祇園嶽南の峠へ下る。








「嘉吉の乱終焉」に至るまで(その2。 城山城攻防戦1、2日目まで)

 9月8日未明、包囲網を完成させた山名勢による本格的な城攻めが始まる。この時点で城内に残っていた兵力は500足らずであったといわれるが、
城山城の各防御施設を駆使しよく奮戦する。結局この日と翌9日は山名勢は城に取り付けないまま退却。ところがその夜状況を激変させる事態が発生。
夜陰に乗じて満祐以外の赤松一族が郎党と共に300人くらいで城を脱出。山中を室津方面へ向かったという。この時に脱出した人物は書物によって
相違があって判然としないが、赤松則繁、則頼もしくは義雅、則尚の名が挙げられている。いずれにしても城中に残った者の衝撃は察するに余りある。

 脱出した人々のその後を見ると、赤松家の再興を期していたことが分かる。しかし、そのいずれの企ても山名持豊が健在のうちには実現しなかった。
しかし、それらの人物のうちの一子が赤松政則であり、後年再び赤松家を再興させることになる。
 
 一族が脱出した夜の翌9月10日が城山城の運命が遂に極まる日になった。






8:55 小さな峠を通過、城山城へ向かう

 城山城北端の出城から来た道を峠まで戻ってきて、今度は城山城へ向けて直進する。

 すぐに分岐に辿り着く。左が険しい稜線上の尾根道、右が緩い山腹道。天気もイマイチ
だったし、今回は緩い山腹道を歩く。しばらく歩くとすぐに左手からトラックが合流してきた。
そのトラックを振り返るとシダ藪に覆われていた。山腹道を歩く人のほうが多いのだろうか。


 シダ藪が至るところであるが、城山城の主稜線上ではここが最も茂っていた区間。
一日を通して最も不明瞭だったのが、やはり祇園嶽南の峠へ上る水布弥谷コースだった。

 しばらく小刻みに登ったり下ったりの尾根道が続く。

9:29 馬立分岐

 馬立の集落から直登してくるトラックと合流。分岐から見下ろしてみると、かなりの急坂が
下のほうへ続いている。麓には古墳群があるようだ。城山城周辺では実に色々な時代の
遺構を見ることが出来ると感心する。


供養碑 (南無阿弥陀仏の銘がある)

 馬立分岐からすぐのところには供養碑が建っている。南無阿弥陀仏の銘があると
道標に書かれている。岩の隅々まで観察してみたが、碑文を見つけることは出来なかった。
でも古戦場の中を今歩いているということを改めて実感させられる。


蛙岩

 カエルの後姿にそっくり!六甲の魚屋道沿いにある蛙岩よりは小さいが、
こちらのほうがよりカエルらしいかもしれない。供養碑からすぐのところにある。


9:37 城山城、亀の池分岐

蛙岩からこれまたすぐに分岐に到達。ここから亀の池まで5分という。しかし、今回は
先を急ぐ&水が少ないことが予想されることから次の機会にとっておくことにして、
城山城へ向かうことにする。

 その前に、分岐奥にある亀岩をじっくり観察することにしよう。


亀岩 (ノコノコを思い出した)

 マリオカート(得意なゲーム)で必ず使用するキャラ、ノコノコにそっくりなので
ついつい嬉しくなってしまった。頭などは本当にカメそのものである。

 当山域は亀山(きのやま)、亀の池、そしてこの亀岩。とやたら「亀」が目に付くが、
もしかしたらこの岩がその名の由来になっているのだろうか。山も池もどのようにも
名前は付けられるが、この岩はまさしくカメにしか見えないからだ。

 亀岩で楽しんだ後、城山城へ向けて出発する。
森歩きかと思ったら、すぐに再び尾根上に乗る。


9:52 展望の休憩所

 不意に視界が開けて眺めの良いところに出てくる。切り株がいっぱい並べられていて、
休憩には便利そうだが、後方の林の中に屋根の残骸が放置されている。もしかしたら
ここにあずまやでもあったのだろうか。

 朝方よりは天気が良くなってきた気がする。新龍アルプスのハイライトを歩く頃には
晴れているといいのだがと思いながら緩やかに登っていく。

 展望地からも緩くなったり、たまに急になったりしながら断続的に登りが続く。
展望は無いが自然林が途切れることなく続き、またこの時期は落葉のじゅうたんで
気持ちよく歩ける。


10:12 亀山(城山)山頂 (458m)

 緩やかなトラックを登りつめたところが亀山山頂だった。東側の雑木が切り払われていて、
下界の様子が手に取るようである。今は眼下を横切る揖保川の流れがのどかな情景で
あるが、日に日に軍勢を増やしながら包囲網を縮めてくる幕府軍を見ていた満祐以下城兵
達はどのような思いで見下ろしていたのだろうか。

 山頂は平らになっているが、ここも城山城の削平地のひとつである。ここが本丸かと
思ったが、実際にはもう少し南へ歩いたところにある2つのピークの鞍部付近が城山城の
主郭、もしくは赤松屋敷跡と呼ばれていて、城全体から見るとここは主郭の北の外れと
いった感じかもしれない。
 城山城一帯は旧新宮町教育委員会によってある程度発掘調査が行われている。
しかし、亀山全体から見れば、調査済みの区域は中心付近に限られており、今後の
調査如何によっては城域がもっと広がる可能性が高い。以前に竹田城(朝来市)に
訪れたことがあるが、城山城のほうがずっと広いようである。
 ところで旧新宮町は現たつの市の一部になっている。これからの発掘調査はどうなる
のだろうか。


亀山(城山)山頂にある、今日2つめの三角点

 山頂の削平地は広く、かなり大所帯の団体で来ても、全員収容できそうな広さである。


 晴れてきたらかなり視界が良くなってきて、明神山や笠形山までが見える。
一旦は雑木を整理したようであるが、もう少し育ってきたら再び視界が遮られるだろう。
木を切るのは心が痛むがこの展望は捨てがたいし複雑な気持ちである。


觜崎の屏風岩と寝釈迦の渡し付近を見下ろす

 古くから知られていた景勝地を、亀山山頂からだと真正面に見ることが出来る。
いずれあの屏風岩の上の尾根道にも歩きに行かなければならないだろう。
 ちなみに、現在使っているコンパクト機ではこれがズームの限界。もっとアップで撮りたい、
もっと広角で撮りたいと思うことはしょっちゅうで、もう野歩記さんに続いて一眼レフ機を導入
する日も近いと思う。

 話を嘉吉の乱に戻せば、城山城下に到着した山名持豊が最初に本陣を置いたところが
觜崎村の西福寺(残念ながら現存していない)といわれている。まだまだ城山城周辺に
見どころは尽きないようだ。

 三角点後方の道標には「築石まで5分」とある。しばらく休憩をした後で、西に緩やかに
下っていく小道を辿る。少し下るがさほど離れていないので絶対に立ち寄るべきだろう。


10:24 古代山城の門の礎石

 同じ形をした礎石が西に下る尾根上に2つある。元々は尾根に対して直角に、
尾根を遮るようにして門があったのであろう。この遺構は赤松家によるものではなく、
もっと昔の飛鳥〜奈良時代の頃の古代山城のものであるという。当時の大和朝廷は
朝鮮半島の同盟国である百済を支援し、新羅と敵対関係にあった。次第に情勢は
新羅に大きく傾き、西日本各地に新羅の脅威に備える山城を築いたという。
その一つがこの城山にあったようである。

 城山には時代が異なる複数の遺構が重なって現存している模様であり、
きちんと調査しさえすればもっと新事実が判明するかもしれない貴重な山である。
現在判明している中で最も新しい時代の遺構は、戦国時代に一時的に播磨に侵攻
してきた尼子晴久(出雲の戦国大名)が城山城を拠点にした際に新たに補強した
らしい土塁である。尼子勢が去った後、再び城山城が歴史の舞台になることはなくなった。

 門の礎石を観察した後は再び亀山山頂へ戻り小休止。そしていよいよ城山城主郭へ
向けて山頂から南へ緩やかに下っていく。


10:41 石塁Cへ

 亀山山頂から南へ進むとすぐに分岐が現れた。このまま直進すると城山城主郭だが、
その前に石塁Cを見ておくことにする。分岐からの距離は300m。しばらく山腹道だが
すぐに尾根に乗る。この尾根は自然のままの地形で削平地は見受けられない。踏み跡は
かすかだが、一定距離を置いてマーキングがあるので簡単に辿り着くことができる。


 尾根を下っている途中で、スポーツ飲料のペットボトルが捨てられていた。
石塁Cを見にいった何者かが捨てていったのか。近くにはビニールシートもある。
ため息と共に頭にくるが、石塁Cを見た後に再び戻ってくるので後で回収しよう。


10:46 石塁C

 しばらく下ったところで唐突に尾根の谷間に埋もれている石垣が目に飛び込んでくる。
意外なことにこれも赤松時代のものではなく、古代山城の遺構であるということ。
先ほどの門の礎石と同じく、古代山城の遺構は殆どが亀山の西斜面に集中している。


 少なくとも1300年以上も前からここにあったと思われる石垣である。とても感慨深い。
赤松家による城山城のほうが遥かに後の時代になるが、石塁は殆ど使用されていない。

 現在、確認されているだけでも石塁は全部で4箇所あり、ここと同じようにA,B,C,Dと
便宜上命名されている。その中でもこの石塁Cが最大規模のものであり、長さは約40m。
それほど長くは見えなかったが、長い年月の間に土砂に覆われてしまっているのかもしれない。


 古代山城の石塁を堪能した後で再び分岐まで戻る。先ほど見つけたペットボトルと
ビニールシートも忘れず回収する。ゴミを捨てるなら山に入ってこないでほしいものだ。

 分岐からしばらくは平坦なトラックが続くが、まもなく緩やかな下りになり、段々状に
続く削平地の只中に出てくる。いつの間にか自然林は植林になっており、周囲は薄暗い。
それまでとは全く雰囲気が異なっている。こここそが城山城主郭である。








「嘉吉の乱終焉」に至るまで(その3。 城山城攻防戦最終日。その後)

 9月10日未明、一族が多数脱出したことを知った満祐は、嫡子教康も城を脱出するように促す。教康は最初聞き入れなかったが、
結局折れて涙の中の今生の別れとなる。しかし、教康は遠からず討ち取られることになり、赤松再興は政則まで待たなければならなかった。

 この日も夜明けから山名勢の総攻撃が開始される。大勢が脱出したために既に城兵も少なく、この日は殆ど抵抗の無いままに各所の砦に
火を掛けられる。山名勢にとってもかつての明徳の乱で逆の立場になったために、仇討ちはこの時とばかりに最後まで皆士気は乱れることなく
旺盛であった。既に山名勢が城山城内に突入する時刻は差し迫っていた。城山城のあちこちから火の手が上がり始める。

 そして嫡子を脱出させた満祐は覚悟を決めて、最後まで付き従ってくれた一族郎党六十九名にお礼と別れを言った後、家中一の剛の者
である安積監物行秀※に介錯をさせて自害。他の者も後に続いた。安積以下数名だけは迫り来る山名勢としばらく切り結んだ後で、満祐の
後を追った。赤松惣領家(前期※)が滅亡した瞬間であった。



※ 安積監物行秀 ・・・ 六代将軍足利義教の首を取ったのもこの人物といわれる。満祐股肱の臣。
※ 赤松惣領家(前期) ・・・ 足利尊氏に従って室町幕府の礎を築いた赤松円心則村より、満祐に至るまでを前期赤松家。政則によって再興され、
秀吉の脅威に屈して則房が置塩城(夢前町)を明け渡すまでの5代100年続いたほうを後期赤松家と区別している。この時代惣領家と庶家の対立
はよくある話で、赤松家が揺らぎ、簡単に敗れ去ったのも、これが一因となったのは間違いないと思われる。実際、赤松庶家の満政は幕府軍に属し
て、自分にとって惣領である満祐討伐に参戦している。



 戦後、満祐を討伐した第一の功名ということで、山名持豊には播磨守護職が与えられ、備前や美作の旧赤松領も山名領となる。
当初、幕府方についていた赤松庶家の満政に東播三郡(明石、加古、稲美)が分割されていたが、時を経ずしてこれも持豊は領有に成功。
何度か赤松家一門の抵抗もあったが、基本的に応仁の乱に至るまでは山名家による播磨支配は磐石であった。

 応仁の乱は山名家にとってまさに大失策といえる大戦だった。この前後に功名を上げた赤松政則がその後播磨の奪回に成功。その間に京で
山名宗全(持豊)が病没したということも政則には追い風になっただろう。応仁の乱が終結した後も、山名と赤松の間で数回にわたって、播但
国境の真弓峠、英賀保などで戦いが繰り広げられるが、赤松政則はどうにか播磨の領有を守ることに成功する。

 しかし、その後は山名と赤松共に似たような歴史を辿る。下克上の戦国時代になると守護大名の権威が失墜し、守護代以下被官が台頭する。
両家とも内部紛争に翻弄されて、他国に戦を仕掛ける余裕すらなくなった。そして室町の頃とはかけ離れて弱体化したところで、東から新しい
時代を担う信長勢を迎えることになる。





 
短くまとめるつもりだったが、やはり無味乾燥な教科書のようにはいかなかった。同時代人はたいへんな時代であったと思うが、やはり自分にとって
一番魅力を感じるのは生き生きとした人間模様を感じることの出来る中世であり、決して歪な形で国がまとめられた徳川時代などではない。

 おそらく播磨の歴史の中でも、赤松家と山名家の歴史は最も特筆すべき事項であると思う。
城山城を歩く時はこれだけの重い歴史を背負ったところであるということを考えながら歩くと、普段の山歩きでは得られない感慨を味わうことが出来ると思われる。





11:07 城山城主郭、赤松屋敷跡と三基墓

 植林に覆われて薄暗い削平地の中を緩やかに下っていくと、左手に見えてくるのが三基墓と
呼ばれる供養碑。写真では絞りを薄暗い森に合わせているので明るく見えるが、右の写真が
実際に肉眼で見た明るさである。

 ここで満祐以下、69名の主従が激戦の末に自害したといわれている。その場に立っている
と思うと、歴史好きな自分としては本当に何とも言い難い思いがする。

 それにしても、この赤松屋敷跡を覆う植林は荒れ果てて、一部では倒木が放置されたまま。
この時も軋む音をする木に気付いた。もう少し何とかならないだろうか。この三基墓に倒木が
倒れたらたいへんだ。


嘉吉ノ乱戦死者開眼之供養碑

 縁故の方が手向けられているのか、捧げられているものはいずれもそう古くはない。
自分も歴史を学ぶ者として手を合わせておこう。

 このような三基墓の前でさえ、飴玉の袋が捨てられているのを見て憤然とする。
無神経甚だしいことこの上ない。もちろん回収済みだ。きれいなまま保たれるといいが。




城山城

 城山城は標高458mの山上に位置する山城で、奈良時代の古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しています。
 古代山城の遺構は主に西斜面に残っており、石塁(a〜d)や「門の築石」と呼ばれる門礎等があります。中でも石塁Cは全長41m。
高さ3mの規模をもち、当山城の石塁としては最大です。また「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、同形のものが日本では
山口県の古代山城「石城山神籠石」にあるだけです。
 14世紀の中頃、播磨国守護赤松則祐は播磨支配の拠点とするため大規模な山城を当地に築きますが、嘉吉の乱(1441年)で
赤松満祐が幕府軍に攻められ当城で自害し、城山城も落城します。
 城山城には、この時の遺構(郭・堀切等)が多数残っており、当時使用していた遺物も出土しています。
 城山城は県下唯一の古代山城として、また播磨屈指の中世山城として大変貴重な遺跡といえます。

 平成六年三月
 新宮町観光協会



 この時、城山城の主郭で自分が見て廻った範囲はほんの一部である。今日は鶏籠山まで縦走する計画であり、今は日が短いだけにあまりゆっくりもしていられない。
近い将来再び訪れることを決めて、三基墓を後にする。ここからは最短距離で下山出来る兵糧道と呼ばれるトラックが分岐しており、城跡探訪だけなら便利なトラックだ。
今日は的場山に伸びる主尾根上を歩き続ける。赤松屋敷跡を離れると途端に植林は途切れて、明るい雑木林になる。なぜあそこだけ植林になっているのだろうか。
細い尾根上に出てくるが、まだ小さい削平地が見受けられる。まだしばらくは城域の中を歩くようだ。どこまで続くのだろうか。

11:21 新龍アルプス核心部遠望

 城山城主郭を出てからまだ遠くないところで急に視界が開けるところに出る。
遂に姿を見せた新龍アルプスの核心部。遠い昔に思いを馳せた後は、楽しい尾根歩きが
待っているようだ。


11:29 尾根歩きの始まり

 実際に展望を得られるところは少ないのだろうと思い込んでいたが、案外展望を楽しめる
ところが随所にある。ここでは東西両面に窓が開いていた。
揖保川と田園風景

 すっかり回復してきた天気の元で田園風景が一層鮮やかである。朝出発した播磨新宮駅が
画面左端にすっかり遠くなった。


11:33 389mピーク

 しばらく緩やかに登ると389mピークに到着。ここには三角点は無く、また展望も無い
ので足早に通過する。この後もアップダウンを無数に繰り返すこととなる。


ひたすらアップダウンを繰り返す

 389mピークを過ぎると、お次は前方に送電線が横切る382.7mピーク。
今日は朝から山中に全く大規模な人工物(遺構は除く)が無かっただけに残念な光景だ。
ただ地形図の上で良い目印にはなるが・・。とにかく下る下る。どんどん高度を下げていく。
登り返しがけっこう大変そうだと思いつつ下っていく。


紅葉に見とれる

 既に盛りは過ぎた紅葉が増えてきたが、時に最盛期を迎えた木を見かける。
青空にも映えてはっとする美しさである。足元のシダの緑がより彩を添えている。
やはり自然の造形は素晴らしいものがある。
遠くなった城山城を振り返る

 さんざん下った後は382.7mピークへ向けて登り返さなければならない。
しかし随所で展望が楽しめて思ったほど苦にはならない。ピークの手前で特に展望が
開けて、遠くなった亀山がどっしりとした山容を見せてくれる。


12:00 382.7mピーク

 展望の無いピークだった。トラックのすぐ脇には今日3つめの三角点が出迎えてくれる。
ここも休憩スポットになっているようで、数点のゴミを回収する。しかし、やはり六甲よりは
全山で見かけるゴミは遥かに少ない。こういうところでは完璧に回収したいものだ。


12:08 佐野分岐

 382.7mピークからしばらく南下すると、思いがけず展望ポイントとなっている
分岐に到着。佐野という集落へ下山出来るようだ。見下ろす景色がどこから見ても
ほのぼのしているのも好印象が持てる。


 佐野分岐をやり過ごし、ほぼ平坦なトラックをしばらく南下するとまた分岐がある。
今度は逆に西へ下っていくようだ。そこも南から東にかけて大展望が広がっていた。


12:18 鶏籠山と龍野遠望

 いつの間にか近くなった鶏籠山が遥か眼下に、
そして正面には殆ど同じ高さで的場山。そしてその向こうには意外なほど近くに播磨灘が見える。
田園風景の中を流れる青い川面の揖保川を見ていると、心が洗われるような気がする。龍野の街は山影になっていてここからは見えない。

 これからは一旦鞍部へ下り、正面に見えている的場山を目指す。祇園嶽から南北に伸びる主尾根の終端にあたる山であるが、
山上まで車道(一般車通行不可)が通り、山上は巨大な電波塔に占拠されている。山の風情が損なわれているのが残念でならない。

 これまでのように厳しいアップダウンを想像していたが、思ったほどの標高差はなかった。


12:39 NTT管理道をかすめる

 車道の横に出ると、前方には今日初めて丸太階段が見えてくる。
ここまで来ると的場山山頂はすぐそこだ。


12:43 的場山山頂

 丸太階段を登りつめたところが的場山山頂。今日最後となる4つめの三角点が出迎えて
くれる。右手には巨大な電波塔。そして山頂の南面にはわざわざ展望を覆い隠すように
近畿自然歩道の大きな案内板が設置されている。嫌がらせとしか思えない。
 とにかく長かった主稜線の疲れを少しでも癒すためにここで昼食を摂りながら休憩しよう。
展望はイマイチだが、ベンチも設けられている。


的場山山頂から南の景観

 三角点の周囲は展望が無いに等しいが、一段下ったところからはなかなかの大展望が
広がっている。車道と電波塔は見ないことにして、初めて見る的場山からの西播磨の
眺めを心行くまで楽しむ。海に向かって蛇行しながら流れる揖保川がとても優雅に見える。

 出発する直前、これから下る丸太階段から初老の男性1人が登ってくる。
てぶらなので地元の方だろう。明石から来て祇園嶽から縦走してきたというと、
それはそれはご苦労様でした、といって労をねぎらってくれた。


13:04 305mピーク

 的場山山頂から両見坂までは殆ど下り一辺倒となる。途中2つのミニピークを通過するが、
305mピークからは東と南を見渡すことが出来る。揖保川がかなり近くに見えている。


龍野の街を見下ろす

 南には生まれて初めて見る龍野の街が広がっている。
手前には深い谷が刻まれており、この立っている岩場は絶壁の上にある。
なかなかスリリングなところで足元には要注意。

 雨の心配は無いだろうが、心なしか先ほどより雲が広がってきたような気がする。

 この後両見坂に向けて想像していなかったほどの急な下りになる。後で地形図を
見てみたら、等高線の間隔が非常に狭くなっていた。ここは縦走に疲れた足には
本当に厳しい下りだ。
 そしてまた龍野から城山城へ向けて歩く際には難所に早変わりするだろう。
この急坂をマウンテンバイクを押して登られたことのあるやまあそさんのパワーは
驚異的だと、実際に下ってみて改めて実感した。


13:16 両見坂 (約135m)

 やっとの思いで急坂を下りきると、なかなか雰囲気の良い峠である両見坂に到達。
展望を楽しんだ305mピークから短い区間で実に170m標高を下げたことになる。
縦走では鶏籠山のアップダウンも考慮に入れなければならないから、ここは菊水、
鍋蓋に近いほどの難所と思う。


紅葉谷へのトラック

 両見坂は三叉路になっていて、鶏籠山へ行かずともここから龍野の街へ下山することも
可能だ。舗装路になっているのが残念だが、それでも今の時期は特になかなか良い
雰囲気で、名前通り紅葉で楽しませてくれる。

 この両見坂で2人グループ2組が立て続けに登ってくる。1つのグループは山歩きスタイル
だが、もう1組は地元の方が散歩中だった。街のすぐ側にこんな良いところがあるなんて
龍野の人がうらやましい。


 この両見坂にこれから向かう龍野城の解説板が立っているので紹介したい。

鶏籠山龍野古城

 原始林に包まれた「鶏籠山(けいろうさん)」は、鶏の伏せ籠に似たような山だったので、その名がつけられたといわれ、山頂には、今もなお風雪に耐えてきた
城の石垣などが残っています。
 山頂の城は、明応八年(1499)に赤松一族によって築かれ、赤松村秀が最初の城主となり、この地方を治めていました。赤松氏は政秀、広貞、広英と城主
になり、4代78年続きます。天正5年(1577)、天下統一を目指していた織田信長は、播磨、中国地方を平定するため、家臣の羽柴秀吉に播磨攻めを命じ
ます。秀吉軍は、2万の大軍で揖保川まで攻め寄り、この様子を眼下に見た赤松広秀は、赤松の滅亡を憂い、城を明け渡し秀吉の軍門に下ります。
(後に、赤松広秀は、但馬の国和田山、竹田城主となる)

 龍野城は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となります。その後、1598年頃に山頂の城を取り
壊して、ふもとの現在の地に城が築かれたといわれています。
(徳川時代となり、ふもとの城は、元和3年(1617)龍野藩主として本多政朝が入城し、藩主が入れ替わりながら、藩主脇坂安斐、明治4年(1871)廃藩
置県まで続く)

 龍野古城には
 本丸跡、二の丸跡、竪堀り跡、八幡宮跡、土塁跡、削平地跡、などがあり、弓矢に利用されていた矢竹が群生しています。

 霞城文化自然保勝会
 兵庫森林管理署

 



13:30 鶏籠山への登り

 今日最後の登りとなる鶏籠山への登路。初めから山頂付近が見えており、的場山へ
登るのに比べれば数段楽な道のりだった。堀切跡を横切ると、龍野城(通称龍野古城)は
すぐだ。


13:39 古城石段

 今日2つめの城跡探訪の時間がやってきた。城山城は室町時代の、そして
龍野古城は戦国〜安土桃山の遺構である。段々と時代が下っていくのも面白い感覚だ。

 古城とはいえふんだんに石材が利用されている。おそらく築城当初からはなかったで
あろうが、戦国末期〜安土桃山にかけて改修されてきたのではないだろうか。
総石垣の山城としては但馬の竹田城があまりにも有名であるが、あの城が今のような
姿になったのは戦国末期になってからと考えられている。それまではほぼ全てが土塁で
構成されているのが普通なのである。


石畳。奥には八幡宮跡がある。

 石段を登ると、今度は石畳。奥にある八幡宮跡へ続いている。往時は立派な
建物が建っていたのであろう。鳥居に使われていたと思われる木材の一部まで残っている。
南にはもう一段高い本丸跡があって、それを北、西と回りこむような形になっている。


龍野古城の石垣

 本丸跡の周囲には立派な石垣が巡らされていた。石垣は初期の野面積みから、江戸城や
大坂城で見られるような総加工された最終形態まで進化するが、これはその発展途上の
段階ではないか。角にあたる部分の石、そして外面はある程度形を整えた形跡が見られる。

13:44 龍野古城本丸跡、鶏籠山山頂(218m)

 かなり広い本丸跡に到着。見る限り遺構は何も残っていない。
いつの間にか天気はすっかり曇り空。新龍アルプスの核心部で晴れていたのは幸運
だったというほかない。ちなみに鶏籠山には三角点は無い。

 続きのトラックはどこかと見回したら、南東へ降りていく尾根へ続くトラックを発見。
よく見たら道標が完備されていた。


削平地が連なる南尾根

 山頂から街へ下っていく尾根を辿るが、何段もの削平地が折り重なっている。
特に本丸直下の削平地では矢竹が群生していて、矢の材料を手にとって観察することが
出来る。またここに限らず広い範囲で瓦の破片が落ちており、この古城は打ち壊されて
破却されたという事実が改めて伝わってくる。

削平地をつなぐ急坂を下っていく

 削平地はもちろん歩きやすいが、間をつなぐのはただの斜面にしか見えない。
さらに落葉で滑りやすくなっており、特に下山は慎重を要する。疲れた足には
なかなか堪える。


14:04 龍野古城、大手口

 明らかに門があったような形跡がみられる古城の大手口を抜けると、木々の間からは
櫓が見える。鶏籠山を下りきったようだ。充実していてとても長いようで短かった山歩きも
そろそろ終わりだ。
 なお、奥の広場から両見坂へ通じる紅葉谷を上がることも出来るようだ。


14:08 龍野城へ降り立つ

 また時代が下って徳川時代になった。これだけ時代順に城跡探訪出来る機会はそうそう
ありえる話ではないだろう。この門をくぐると下のほうにプールが見える。もう城から出てしまい
そうなので、門を通らずに城内を巡ってみることにする。

 ちなみに自分は徳川時代はあまり好きではない。この時代の城にはあまり興味が
湧かないのである。よってここは散策程度に留める。


歴史文化資料館

 無料なのでぜひ寄っていきたかったが、JR本竜野駅の列車の出発時刻との兼ね合いと、
帰りが遅くなるのでまたの機会にする。ちなみに城内の紅葉は既に殆ど終わり、初冬の
雰囲気だった。

歴史文化資料館横に僅かに残った紅葉

 もう落葉は近い。最後の彩りといった感じだった。


 城内を一周し、大手門へ下っていく。
14:23 大手門から城を出る

 電柱や街灯が無ければそのまま時代劇に使えそうだ。


大手門前に残る紅葉

 この後も今もなお落ち着いた雰囲気を色濃く残す城下町を歩いて駅へ向かう。
ここからだと街角に立てばとにかく城と反対側へ向かうようにする。するとY字型の
3差路に辿り着くので、そこは左へ。後は川を渡るまでは直進。

 街中の写真を撮りたかったのだが、バッテリーがピンチになってきた。
今度ゆっくりと街歩きもしてみよう。


14:39 的場山、鶏籠山遠望

 揖保川に架かる龍野橋の袂からは、龍野のシンボルともいえる景観で楽しむことが出来る。
鶏籠山は本当に鳥籠みたい。電波塔の的場山は遥か遠くになった。

 ちなみに、橋の袂のこの景色が店内から見える喫茶店では、かつて「男はつらいよ」のロケ
に使われたらしい。自分は1作も見たことはないが、作中で絵描きの人に寅さんが、この角度
から見る鶏籠山が最も美しいからと絵を描いてくれるように頼むシーンがあるとか。
寅さんには興味ないが、そこのシーンだけ見てみたい。

 ちなみに龍野橋は南側にしか歩道が無い。交通量はかなり多いので渡るのは一仕事だ。

 龍野橋を渡った後、道なりに進んで2つ目の交差点で斜め左へ伸びる道へ左折。
あとは本竜野駅までまっすぐだ。初めての龍野の街歩きだったが、非常に分かりやすかった。


14:49 JR本竜野駅到着

 出発地の播磨新宮駅とそっくりの本竜野駅に到着。姫路行き列車の出発時刻まで20分ある。
駅の周辺をうろうろして時間を潰した。駅前には観光案内所があって、龍野のパンフレットが
置いてあった。

 本竜野駅から姫路へ向かう列車は基本的に1時間に2本。列車の出発時刻を前もって
調べておくことをお薦めする。駅の窓口に姫新線の時刻表があったのでもらっておく。
本竜野までは30分に一本の割合で出ているが、ここ以西は極端に本数が減る。
これは頭に入れておいたほうがいいだろう。


15:11 JR本竜野駅発

 帰りもまた1両編成のディーゼル列車だったが難なく座れた。
のんびり走る列車に揺られて家路に付く。

 ふと考えたら駐車地が全く無いわけではないし、ガソリン代よりも列車利用のほうが高い。
でも姫新線に乗るのは初めてということもあって、旅行気分も味わうことが出来た。
龍野はそんなに遠くないが、まるで「遠くへ行きたい」みたい。
これからも龍野へ来る時は姫新線をぜひ利用したい。

 途中トンネルを通ったが、それが播州野歩記さんで採り上げられている
槻坂(けやきざか)トンネルだった、という風に車窓風景を充分楽しんだ。


15:33 JR姫路駅着

 毎日新快速と快速に乗り慣れているため、旅情ムードを感じない山陽本線の列車に乗り換える。
それはともかく姫路から乗ると絶対に座れるから得だなぁと感じた。


 今日は山歩き、写真撮影、史跡巡りと一石二鳥どころか一石三鳥で、大満足の山歩きとなった。
城山城も含めて、周辺にはまだまだ見どころが多いようで、これから何度となく龍野を訪れることになるだろう。


今日の行程の断面図です。


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