「城山城探訪。赤松屋敷と郭巡り」 07年7月5日(木)

国土地理院地形図:「龍野」25000分の1を参照して下さい。
 ※ 便宜上、山の名称については、地形図に記載されている亀山(きのやま)で統一します。実際には城山、木山なども使われています。



 梅雨の僅かな合間を縫って、今日は以前から考えていた城山城の郭群巡りを行うことにした。
前回は下りに使った兵糧道から登って、山上の郭を一巡した後、亀ノ池に立ち寄って未踏の大手道を下るプランである。



 城山城探訪をより充実あるものにする参考書籍は以下の通りである。

1.神戸新聞総合出版センター 「はりま 歴史の山ハイキング 電車・バスで日帰りできる30コース」 P.86 城山、P.90 祇園嶽。

2.サンダセレクションプレス(SSP出版) 
「嘉吉の乱始末記」 ← 城山城の構造について詳述されている。

3.但馬文学会 
「小説 山名宗全」 ← 城山城攻防戦について、山名持豊側の視点で明快に記述されている。



6:35 東觜崎駅出発

 今回も姫新線を利用。兵糧道の登山口のある下野田へは東觜崎駅が最寄である。
ここでは下野田まで1時間近く掛かっているが、途中の觜崎の屏風岩付近で気動車を撮影していたためで、普通に歩くと30分ほどと思われる。

 ※ 姫新線の写真については後日別項で掲載する予定です。








7:40 下野田登山口 (左)

 觜崎橋から道なりに西へ進むと栗栖川(揖保川の支流)にぶつかる。下野田登山口までの道筋は非常に分かりやすい。
川に突き当たったところからすぐ南にある橋から渡って山へ入る。

 ここで身支度を整えたり、犬を連れた地元の方とお話ししてからいよいよ登山開始。地元の方々も涼しい時期にはよく登られるという。
裏山が亀山とはうらやましい住環境だと思う。

 橋を渡ってすぐ北に道標や案内板がある。橋の手前に設置するほうが目立つような気がするが・・。
兵糧道は最初だけは軽自動車なら通れるくらいの幅の林道である。(右)









兵糧道を彩る渓谷美

 少し登ったところからは沢沿いの気持ちの良いトラックとなる。前回下った時には殆ど涸れていたが、今日は梅雨のおかげで水量は充分。
涼感たっぷりの登路となった。2、3度渡渉しながら、沢沿いを登っていく。数多くの小滝が掛かっていて、撮影のために遅々としたペースになる。
沢床を辿ってみたくなるが、今日は渓流シューズを持ってきていないのが残念だ。








兵糧道を彩る渓谷美







 轟々と水が流れる横を快適に登っていく。まさにこの時期ならでは風情である。(左)

 時折、意外に立派な滝も現れて本当に退屈しない。滝壺の水も清らかで気持ちが良い。(右)
この滝を前にしてトラックは左岸へ再び渡渉する。








 上流が近づいてくるとかなり大きな滑上の滝もある。前回涸れ谷の状態を下った時、水量豊富な時期をぜひ歩いてみたいと思ったのはまずこの滑滝を見たからである。
トラックはほぼ全線を通じて沢のすぐ脇を通るために簡単に渓谷美を堪能することが出来る。








8:33 沢を離れて山腹道になる (左)

 流れは細くなってきたものの、沢はまだ水量充分なまま上流に向かう。しかしトラックは途中で南の尾根に向かって沢から離れる。
なかなか急坂ではあるが、すぐに木々の間から視界が開けてくるところを通過。歩いてきた谷を見下ろすことが出来る。(右)

 今日初めての展望をしばし楽しんだ後、短い間だけジグザグ道ですぐにほぼ高低差の無い山腹道となる。
山腹道となると見張り岩はもうすぐそこだ。








8:47 見張り岩到着

 小さな岩棚が突き出ている見張り岩に到着。その名の通りに東に好展望が広がる。これまで歩いてきた東觜崎駅から兵糧道の谷筋までが一目で見渡せる。
この兵糧道は城山城への最短登城路ということで、もちろん敵兵が殺到することを考慮に入れられている。見張り岩付近から上は南に新龍アルプスを成す本尾根が走っている。
また北側には東の郭があって、それぞれから敵が取り付くのを防ぐことが出来るようになっていたという。まさに自然の地形を生かした天嶮の要害だったといえるだろう。

 見張り岩でオカリナを吹いたり、姫新線の気動車を望遠撮影したりして小休止を入れた。




9:07 見張り岩出発

 見張り岩までで殆どの高度を稼いでいる。再び接近してくる沢の源流部沿いを歩くがいたって緩やかな登りだ。








滑りやすくなっていた兵糧道最上部 (左)

 すっかり細くなった沢を渡り返しながら登っていく。丸太橋が渡されているが、濡れていてとても滑りやすかった。この付近ではロープが設置されていて手すり代わりに出来る。
前述したように兵糧道最上部は南北の山上から狙い撃ちされやすい。城山城攻防戦では東の正面からは大将山名持豊の本隊が攻め上ったといわれている。
城兵が少なかったために比較的短期間で戦が終わったが、この兵糧道最上部付近では主郭に取り付こうとする山名勢と、逆落としを狙う赤松勢による激戦が繰り広げられたとみられている。




9:19 一旦南尾根へ向かう (右)

 間もなく分岐が現れる。このまま谷を詰めると三基墓のある主郭へ至るが、ついでに南郭を経由したいので一旦南尾根へ向かうことにする。
途中で新龍アルプスを一望出来る展望スポットもあるので、寄り道するのがお薦めである。

 分岐からは既に南尾根がすぐ上に見えており、すぐに尾根に乗ることが出来る。








 ここで城山城の概要を分かりやすくお伝え出来るように鳥瞰図を掲載する。画像は南側から見下ろしたものである。
実際の城山城はここでお伝えするよりもずっと規模が大きく、北側は以前に訪ねた祇園嶽周辺まで出城の遺構が確認されている。
南側の尾根にも何らかの防御施設があったことは想像に難くないが、全ての山域で学術的調査が終わったわけではなく、
今後の調査如何によってはもっと城域が広がる可能性は充分にある。

 また今回は室町時代の赤松家の城山城にこだわったので、古代の石塁や礎石は割愛することにする。
城山城は室町時代だけ使われたわけではなく、古代から戦国時代まで多くの時代、そして施設が重なって使われたと推察されている。


 前述のように城山城の城域は広大なもののようだが、主要な部分は三角点のある亀山山頂、南の452.2mピーク、そして主郭のある谷を挟んで東にある446.2mピークの
3つの主峰とその周辺に連続する郭で構成されている。3つの主峰はほぼ同じ高さで、実際の亀山は3つものピークがあると考えて差し支えないと思う。

 なお便宜上、主郭以外の郭の呼称を方角で付けている。

 今日の行程は兵糧道から登ってきて、南郭、主郭、東郭、主郭を経て中央郭へ立ち寄り、そして三角点のある亀山山頂を経由して北へ向かうというものである。
新龍アルプスや各方面の登城路などの主要ルートは整備されて歩きやすいがそうでないところもある。(亀山山頂以外の2つのピークなど)








 兵糧道最上部付近で沢から離れてすぐに南尾根に乗る。この南尾根上にも小さな郭が連続して配置されていたようである。
兵糧道や南尾根を辿って攻めてくる敵を想定しているようである。




9:30 新龍アルプスを一望する (左)

 南尾根を主郭に向かって歩いていると、新龍アルプスを一望出来るところに辿り着くが、曇り空ではやはりぱっとしない。

 南尾根は小さな郭が並んでいたようだが、その中でも最もはっきりと削平地であると認識出来る郭を通り掛った。(右)
建物があったとしても小さな小屋程度であっただろうというくらいの面積だ。
今では森に覆われているが、中世には兵糧道を見下ろすことが出来たのだろうか。



 南郭にあたる南尾根をしばらく歩いてすぐ主郭の南端に到着。兵糧道の終点でもある。
三基墓がすぐ近くに見えるが、その前に一段高くなっている隣り合った南西隅の郭へ向かった。








9:44 主郭南西隅の郭

 かつて池のある庭園を備えた居館があったと考えられている郭である。今でも水気が多くてコケ類の植物がびっしりと生えている。また池の名残を思わせる地形も見受けられる。
主郭の殆どが植林で覆われているが、何故かこの郭だけは見ての通り雰囲気がまるで違っている。かつては立派な居館が建っていたとしても、城山城攻防戦から560年余を
経た今となっては想像するのはちょっと難しい。

 そしてすぐ西には中央郭のある452.2mピークの斜面がある。中央郭は主郭との間にいくつかの小さな郭が続いていたようだが、
今それらを辿るのは難しそうに見える。また別の季節に挑戦してみよう。

 南西隅の郭を観察した後、今度は一段低くなっている三基墓のある南東隅の郭へ移動する。ここは兵糧道、新龍アルプスのメインルート、そして礎石建造物址のある東郭への
サブルートが分岐する要衝になっている。深い植林の中にあるためにやはり雰囲気は一気に暗くなる。








主郭南東隅の郭。三基墓(嘉吉ノ乱戦死者開眼之供養碑)がある

 前述の南西隅の郭よりも一段低い南東隅の主郭にやってきた。低くなっているというのは、主郭のある谷の中で最も低地に位置するためか
かなり水気が多くなっており、長い年月の間に侵食されたようである。また兵糧道と並走している沢の源流部にもあたるところでもある。調査では井戸の跡も発見されている。

 とりあえず三基墓に向かって合掌する。まさにここにあった屋敷の中で、大将赤松満祐以下、主従69名が自害したといわれている。
ここへ来ると、やはり粛然としたものを感じさせられる。自害後に突入してきた山名勢の出石景則が遺骸となっていた満祐の首を取り、
觜崎に本陣を構えていた山名持豊が首実検をしたという。

 赤松満祐による6代将軍足利義教暗殺に端を発した嘉吉の乱は、まさに後の戦国乱世を呼び込む大事件となってしまった。
そう考えるのは少し早い、応仁の乱辺りからが戦国時代と考えていた頃もあった。しかし良い意味でも悪い意味でも、足利義教は真のリーダーシップを発揮した
最後の足利幕府の将軍であると思う。それ以降は幼少であったり、あまり政治に熱心ではなかったり、また権威が不安定になり、そのまま織田信長に滅ぼされるに至る。

 関が原や大坂城は戦国時代の終わりを象徴する場所であるが、この城山城は逆にその始まりを今に伝える貴重な遺構であると思う。
 華やかな建造物の残る姫路城は今では「世界遺産」にもなっているが、自分の価値観では実際に大事件の舞台になったこの城山城のほうにより重い歴史的価値を感じる。

 いつもよく考えるのだが、もし義教が癇癪持ちではなく、満祐の恨みを買うことなく、父義満(アニメ一休さんに出てくる将軍様。とんちは弱いが足利幕府最盛期を築く)のように
再び幕府の権勢を高めることが出来ていれば、嘉吉の乱が起こることもなかっただろうし、三管領四職の権力争いが主原因と見られている応仁の乱も回避出来たかも・・。
そうなれば、播磨奪取という持豊の悲願も遠のいていたかもしれないが。
と考えれば、ちょっとしたはずみで全く違う方向に向かうことが往々にして起こるのが歴史だと思う。

 そう考えれば、今度の参院選挙は新たに歴史を作る責任を担うのは民主主義国家に暮らしている我々一人一人であり、投票を棄権するというような無責任なことは、
長い目で見れば歴史を再び狂わせることにもなりかねない。我々自身がキャスティングボードを握っていると考えてよいと思う。
投票率が下がって一部の組織票に左右されるような状態では民主主義は死んでいるも同然だ。

 足利義教はあまりの独断的専制政治が命取りになった。それを考えると、これだけ長い間、失政、不正、腐敗、そして失言の限りを尽くしておきながらも、
自民党に政権を任せ続けているというのは歴史的に見て不可解な現象であると感じるのは自分だけだろうか。

 なお、恐怖政治のみで有名な足利義教ではあるが、貧民のために糧食を施すという慈悲深さのある人でもあったことは殆ど知られていない。これは忘れてはいけないと思う。
基本的に歴史は勝者のものであり、情報が操作されるのは古今東西よく見られる現象である。




城山城

 城山城は標高458mの山上に位置する山城で、奈良時代の古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しています。
 古代山城の遺構は主に西斜面に残っており、石塁(a〜d)や「門の築石」と呼ばれる門礎等があります。中でも石塁Cは全長41m。
高さ3mの規模をもち、当山城の石塁としては最大です。また「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、同形のものが日本では
山口県の古代山城「石城山神籠石」にあるだけです。
 14世紀の中頃、播磨国守護赤松則祐は播磨支配の拠点とするため大規模な山城を当地に築きますが、嘉吉の乱(1441年)で
赤松満祐が幕府軍に攻められ当城で自害し、城山城も落城します。
 城山城には、この時の遺構(郭・堀切等)が多数残っており、当時使用していた遺物も出土しています。
 城山城は県下唯一の古代山城として、また播磨屈指の中世山城として大変貴重な遺跡といえます。

 平成六年三月
 新宮町観光協会





 三基墓に合掌した後、まだ未踏となっている東郭に向かう。








9:58 三基墓前から礎石建造物址へ (道標あり)

 兵糧道終点にもなっている分岐から東側の小高い446.2mピーク南山麓にある東郭を目指す。初っ端から倒木が重なっていて難路を想像させるが、
意外にも整備されて歩きやすいトラックが山腹道になって東へ緩やかに登っていく。すぐに東郭の広い削平地に飛び出した。








東郭

 まず目に入ったのは一段高くなった削平地と、それを取り巻くごく低い石垣の列。見るところ建物の礎石ではないようだが・・。
何かの遺構であるのは間違いないと思う。

 一段高くなっている削平地を横切って東へ向かう。東郭はずっと奥まで446.2mピークを回り込むように続いている。
今では森に覆われているが、かつては南側に広く兵糧道を見下ろすことが出来たと考えられる。このことから東郭は主郭を防御する重要な拠点であったとともに、
3方向を急斜面に囲まれていることから本丸の役割を果たしていたとも推察されている。








礎石建造物址

 一段高くなった削平地の次は、見事に配列された礎石が目に飛び込んでくる。かつてここに何らかの建造物があったのは間違いない。
しかし主郭にはこのような目立つ礎石群は無い。例えば古代山城のような違う時代の遺構であるとか、また主郭とは用途の異なる建造物がここにあったのか興味は尽きない。
姫路城のように見事な建造物を見て楽しむのももちろん良いが、残された遺構を見て想像力を働かせるのもまた違った楽しさがあると思う。



東郭はまだ東へ続いている。最終的防御ラインと考えられている446.2mピークへの取り付きも探しがてら東へ歩くことにする。








 短い隘路を経て、再び広い削平地に出てきた。しかしこちらには礎石と思しきものは全く見当たらない。ここは東郭の東端にあたる。周囲の山腹を見下ろしてみると
普通に登ってくるのも難しいほどの急斜面だ。城山城ではどこでもそうだが一面見事な森に覆われていることが、城が使われていた時から長い歳月が流れたことを想起させる。

 削平地の縁に沿って反時計回りに歩いていくと、446.2mピークへ誘っているかのように郭が連なっている斜面が目に入る。
登りやすそうなところを選んで登っていく。木々が生い茂っているが下草が少ないのでまだ歩きやすい。








段々状になっている446.2mピーク南斜面 (左)

 446.2mピークへは削平地がいくつかあるために登りやすい。




10:19 446.2mピーク到着 (右)

 標高差は僅か30mほどなのであっという間に平らなピークに到着。
ただ削平地ではなかった。ピークには何も建物が無かったのだろうか。
 今日は辿り着くのを断念したが、446.2mピークから東に下る尾根の途中(標高約400m地点)にも小郭が認められるという。
この尾根は弓なりに下野田まで続いているが、かつては尾根上に城と下界を結ぶ通路があったようである。

 展望皆無の446.2mピークに辿り着いたので、再び来た道を東郭を経て主郭まで戻っていく。距離的には緩やかな西斜面を経て主郭へ下ったほうが早いが
踏み跡皆無のブッシュが広がっているので万全を期した。








主郭を北へ進む

 三基墓まで戻ってきて、南北に長い主郭を北へ緩やかに登っていく。主郭は東西に446.2mピーク、452.2mピークに挟まれてさながら谷の地形を成しており、
周囲の展望が利かない。しかしながら攻め上ってくる敵からも様子を伺いにくいということだ。しかも位置的に周囲の郭への接続の要である。
そして三基墓や池のある広い削平地のある南端の主郭とは異なり、いずれも狭い削平地が連なっていることから兵舎や倉庫などがあったと考えられている。

 亀山山頂へ向かうトラックが主郭の中を緩やかに登っているのでそれを辿る。
なお、この主郭のみ新龍アルプス縦走の際には必ず通過する郭となっている。








10:39 石塁C分岐

 植林に覆われた主郭を抜けるとすぐに石塁Cへ向かう分岐に差し掛かる。直進すればすぐに三角点のある亀山山頂だが、今日の目的は城山城の郭巡り。
主郭の西にそびえる452.2mピーク周辺に展開していた中央郭※にも寄っておかなければ。

 ※ 3つのピークのちょうど真ん中にあるので、便宜上中央郭と表記します。



 分岐からはピークの北西斜面をトラバースする形で一旦南西へ向かい、ピークから西に派生する尾根に乗り上げる。
石塁Cもなかなか見応えのある見どころであるので、このサブルートもいたって明瞭なトラックとなっている。



 尾根に乗り上げたところで、石塁Cの道標が設置されている。石塁Cは尾根の下方に位置する。以前にも立ち寄っており、また室町期よりずっと昔の古代の
遺構であるから今日は割愛する。
 道標とは逆に北東のピークを目指して緩やかな尾根を登っていく。踏み跡は皆無でたまに生い茂る枝が邪魔になることもあるが、下草が無いので歩きやすい。
意外にあっけなくピークに到着した。








10:47 452.2mピーク到着

 容易に踏み込めないほどびっしりと潅木が生い茂っているピークだった。すぐ北の主峰亀山山頂とは僅か6mほどの標高差であるのに全く扱いが違っている。
それでも見て容易に分かるほど見事な削平地になっている。かつてはここにも主郭を西から見下ろせたはずの郭が配置されていたのである。
そして登ってきたのとは別の尾根、ピークから南に伸びる尾根にも段々状に郭が配置されていた。今日は試みていないが、いずれ主郭から辿ってみようと思う。

 ピーク上の削平地を見届けた後、再び歩いてきた道を石塁C分岐まで戻る。
残るは主峰亀山山頂を中心に配置されていた北郭のみである。








10:54 亀山山頂 (458m)

 石塁C分岐からすぐに亀山山頂へ到着。梅雨の合間の割りには意外と空気が澄んでいて、とても清清しい思いがする。
しかし明らかに山頂東のブッシュが生い茂り始めており、そう遠くない将来には(かつてそうだったらしい)展望の無いピークに戻ってしまうと思われる。

 この亀山山頂は北郭の中心的な郭であり、れっきとした削平地である。今では458m地点に三角点が埋まっているが、城山城築城前はもう少しだけ標高が高かっただろう。
現在のところ、城山城の主要部分の最北端として位置づけられている。

 亀山山頂からは古代山城の築石跡へ通じるサブルートが分岐するが今日は割愛する。


 今回の郭巡りはここで一段落。ここで休憩としたいが、もっと好展望なところの心当たりがあるので、水分補給だけして先を急ぐことにする。




11:00 亀山山頂出発

 亀山山頂から亀岩までは殆ど下りかもしくは平坦で快適な尾根道が続く。新龍アルプス縦走でもかなり快適な区間といえるのではないだろうか。








 亀山山頂からしばらく北へ下ったところでは北郭の北の要ともいえる堀切跡が2重に走っている。(左)(写真に写っているのは外側の堀切) 
もちろん北の尾根からの敵を想定して設けられたものだろう。しかし前述のように更に北の祇園嶽にも出城跡があることから、
全山が城跡であるという認識を持っても差し支えないのではないかと思われる。(もちろん明瞭な削平地が見受けられるのは前述の3つの主峰周辺のみだが)

 トラックは堀切をまたぐようにして北へと続いている。




 堀切通過後は純然とした尾根道になる。(右)
天気のほうは晴れたり曇ったりだが、暑さが紛れてちょうど良かった。
まもなくお気に入りの好展望スポットに到着する。








11:16 展望東屋(跡)

 視界が遮られつつある亀山山頂とは違い、切り株椅子の並ぶこちらのほうは標高が50mほど低いがずば抜けた好展望が楽しめる。
建物と道路が増えたこと以外は、全くこれと同じ景観を赤松勢や山名勢の将兵達も見ていたと思うと、長い年月を隔ててはいても少しは思いを共有出来るような気がする。

 なお東屋跡となるのは、その残骸と思われるものが西の斜面下に見られるからだ。台風で飛ばされたのだろうか。




 ここで休んでも良いのだが、今日は別のところでお昼にするのを決めているので、小休止で切り上げて先へ進むことにする。








11:25 亀岩分岐 (左)

 展望東屋跡からすぐに亀岩到着。この角度で見るとやはりマリオに出てくる「ノコノコ」にそっくり。また久しぶりにマリオカートがやりたくなってきた。

 分岐を見下ろすように亀岩が鎮座している。六甲の魚屋道沿いにある蛙岩と似た境遇を持っている巨岩だ。
どの角度が最も亀に見えるのかいろいろと試してみたが、個人的にはやはり左270度から見るのがベストアングルかと思う。 (右)


 亀岩のベストアングルを検証した後は初めての亀ノ池を目指す。昨秋の新龍アルプス縦走時には立ち寄らなかった池だ。
亀岩分岐から縦走路を外れて西へ緩やかに下るトラックを辿る。するとまもなく木々の間から水面が見えてくる。
思った以上に大きな池が森の中から現れた。トラックは北岸沿いに伸びている。








11:33 亀ノ池

 亀山は東斜面は急峻だが、山上から西は緩やかな地形が広がっている。亀ノ池はまさにその高原状のような地形を利用して造られた池だ。(おそらく人造湖と思われる)
やや風があって残念ながら水面は鏡にはなっていなかった。しかしその風のおかげで7月とは思えないほど清清しい空気だった。
今日は予定通り亀ノ池の岸辺で昼食を摂る。そして今日2回目のオカリナを楽しんだ。何とかレパートリーを増やそうと持ってきた楽譜を広げて練習だ!
でも運指表を見ないと分からない音程があったりする・・。(半音上がったり下がったりする音)








亀ノ池北西端から亀山山頂方面を見る

 亀ノ池の水面の標高は約340m。亀山山頂(458m)との標高差は100m程しかない。北西から見ると亀山の山容ははっきりしないことが分かる。

 トラックは尚も西へと続いているが、今日は大手道(未踏)を下ることにしているので亀岩方面へ戻る。
実は唐猫谷(未踏)を経由して降りようとも考えたが、以前にほぼ同じ季節に唐猫谷を歩かれた野歩記さんが大いにブヨに悩まされたレポを少し前に拝読して計画を変更。
まだまだ見どころが多い山域だし、次の楽しみにしておこう。




12:14 亀ノ池出発

 亀ノ池の北岸で優雅な時間を過ごした後、大手道へ向けて出発する。
歩いてきたトラックを再び亀岩まで戻って縦走路に出る。そして北へ向けてそれを辿る。








亀岩周辺の縦走路沿いに点在する見どころ。蛙岩、供養碑

 蛙岩は六甲の魚屋道沿いにあるものに比べるとかなり小さく、例えてみればおたまじゃくしのようなものか。(しっぽが無いけど)

 供養碑はもちろん城山城攻防戦で討ち死にした方々のために建立されたものであろうが、今となっては書かれている碑文を読むことは肉眼では磨耗のために不可能。
但し写真の向きで正面に当たる面には、よく見ると何かの文字が彫られていたことは分かる。何か専門の機材でもあれば解読出来そうに思える。








12:26 大手道分岐

 蛙岩、供養碑を通過するとすぐに馬立地区まで下る大手道の分岐に差し掛かる。ここからは全く未踏のトラックなので楽しみである。
初めからけっこう急坂だが、それもごく僅かですぐに山腹沿いの緩やかなトラックになった。
そしてしばらく緩やかに下ると、松の木が散在する突き出た岩場に着く。ここからもなかなかの絶景が楽しめる。
兵糧道の見張り岩よりもむしろこちらのほうが開放感があるかも。南には大きく亀山がそびえている。
ちょうど良いタイミングで通過する姫新線の気動車を撮影したりして一息つく。

 大手道と名が付いているからには、ここを兵が行き来していたことは想像に難くない。
戦時にはこの岩場から攻め上ってくる敵兵に矢を射掛けたりすることも想定していたのかもしれない。
実際にこの大手道は大部分が展望の良い尾根上を通っており、上から見れば敵の動きがよく見えると思われる。




12:35 松の岩場出発

 岩場は行止まりになっており、少し手前に戻って北斜面を下っていく。森に入りそうだったが、すぐに尾根上に回帰した。








気分爽快な大手道

 いつものパターン通りにすぐに森に入るのではと思ったが、展望が次から次へと開けてくる。もちろん日が当たると暑いのだが、
今日はけっこう風もあるし比較的空気が乾いていたので救われた。

 大手道から見て一つ南に平行して下る尾根(亀山山頂北から派生する尾根)の下部にはこんもり盛り上がった168mピークがあって、
現在地特定、そして現在の標高を測る良い目印になる。また同じ尾根の標高270m付近では一旦平坦になっていて、これも同じく良い計器だ。 (左)

 そして正面にはのどかな田園風景が始終広がっている。 (右) 兵糧道はほぼ展望皆無だが、大手道はかなりの区間がこのような感じなので、
あえて下りで利用するとより楽しめると思う。下りに使ったのは偶然だが、自分にとってたまたま良い結果をもたらしたようだ。








13:04 柱状節理の岩場

 展望を楽しみつつ下ってくるとより広く景観が楽しめて、しかも見事な柱状節理になっている岩場に辿り着いた。
大手道もかなり下ってきたが、本当に展望を何度も楽しめる爽快なトラックだ。
前述の168mピークと比べると現在の標高は約180mくらいだろうか。対面の觜崎の屏風岩とも肩を並べている。かなり下ってきたが裾野はけっこう広いようだ。








 いつの間にか168mピークに肩を並べるくらいに下ってきた。大手道と言ってもその殆どの区間が純然たる山道だが、
時折部分的に階段が整備されている。しかし山道を整備したものであって、城山城の遺構というわけではない。

 風通しの悪い谷間に降りてきて暑くなってきたが、ほどなく深い森の中へトラックが入る。
日差しが当たらなくなっただけで体感温度がまるで違う。

13:15 細い沢を渡渉

 ほどなく小さな沢を左岸から右岸へ渡渉。沢沿いを歩くと一気に温度が下がるようだ。
思わず沢の水で顔を洗った。生き返る思いがする。

 下りの大手道の所要時間は山上の案内板によるとたった20分。しかしここまでで既に50分を要している。
20分は1回も立ち止まらずに急ぎ足で駆け下ってようやく間に合うくらいの所要時間ではないだろうか。








大手道の名残か???

 渡渉地点からしばらく下ると、トラックは森の中を緩やかにカーブを描きながら麓のほうへ下っていく。
この辺りトラックの縁と一面に石が散在しており、六甲の石切道最下部のごろごろ道に似た状況となっている。
この辺りだけでも登城する際の大手道に相応しく、かつては整然と石組みされた道だったように思える。








馬立古墳群に突入

 足をとられそうなごろごろ道を下っていくと、ほどなく森の中に時折盛り土が点在するのが見えてくる。
大手道の見どころの一つ馬立古墳群だ。盛り土は大小様々。中には石室がぽっかりと口を開けているのもある。もうとっくに盗掘されたか、
もしくは発掘調査がされた後なのかどっちなのだろうか。余談だが、飛鳥美人の絵で有名な高松塚古墳はその絵を守るために解体されたが、
自分の感覚では石室を取り出した時点で古墳としての価値を失うと思う。埋葬された人にとっては自分の墓よりも絵のほうが大事なのかと不満に思うのではないだろうか。

 馬立古墳群はこの大手道下部の谷間の地に全部で32基の古墳が点在しており、全部見て廻るのは骨が折れるので目立つものだけ見て下っていく。




13:34 馬立古墳群入り口

 ほどなく前方が明るくなって森を抜けた。そこには馬立古墳群の解説板が立っている。

馬立古墳群

 馬立古墳群は新宮町を代表する古墳群の一つで、この谷底平野一帯には32基の古墳がほぼ完全な状態で残っています。
 この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて当時の農民の作った墳墓であると言われています。巨石を巧みに積みあげた玄室と呼ばれる埋葬のための部屋と、
通路にあたる羨道からできていて、埋葬が終わると羨道の入り口は石を積みあげてふさいでいます。これを閉塞装置と言いますが、再び死者がでたときは、この
装置を外して横から出入りが可能なので、このような古墳は横穴式石室古墳と呼ばれています。
 この時代の古墳には、死者があの世(黄泉の国)で生活に困らないように多数の品々を埋納することが特徴です。町内の古墳からも、須恵器と呼ばれる焼き物や、
馬具、武器類、首飾り、金メッキをした耳飾りなどが出土して、当時の生活や埋葬の様子が分かります。
 北側の山神社の近くの尾根の先端には、姥塚と呼ばれるひときわ大きな古墳がありますが、これは当古墳群の中心的存在で、おそらく村長(むらおさ)と呼ばれる
村の有力者が葬られていると思われます。この古墳は石室の平面が方形で、壁面は天井に近づくにつれて次第に内側にせり出しドーム形をしています。こういった
石室は穹■式石室と呼ばれ、大陸にその祖形が見られますので、渡来人の墓ではないかと言う人もあります。当古墳からは、子持ち壺など須恵器や玉類の出土が
知られています。
 なお、馬立にはこの南側の山麓沿いに、さらに6基、8基、19基の支群があり、計65の古墳が確認されています。


 とりあえず最大級の姥塚古墳だけ見ておくことにする。舗装路の坂を少しだけ登ったところの神社脇にあるようだ。








姥塚古墳

 それほど飛び抜けて大きいというわけではないが、これまでいくつか見てきたものよりは大きいようだ。
この姥塚古墳もやはり石室がぽっかりと開いていて中が丸見えだ。何も入っていなかった。

 古墳にはさほど強い興味があるわけではないのでこの辺りで切り上げ、小さな神社の境内で汗臭い上着を着替えたりして小休止をする。
馬立地区からは東觜崎駅、播磨新宮駅ともほぼ同じ距離があるので、今日は目先を変えて播磨新宮駅まで歩くことにする。
駅に辿り着く手前で播磨新宮止まりの上り列車1本を撮影できそうだ。








13:46 馬立登山口

 神社を出発してすぐ下の墓地の脇を通り抜けて小川の橋を渡ると立派な看板が道の上にある。少々おおげさすぎるのではと思ったが、
ネットが備え付けられていることから獣避けにもなっているのだろうか。

 馬立の集落の中を通り抜けて広いバイパス道に出る。あとは播磨新宮駅へ向けて一直線に北上するだけだ。
天気は山を降りてくるのに合わせてくれたかのように薄曇になって、暑さはだいぶ和らいてくれた。




14:20 播磨新宮駅到着

 ロケーションはいまひとつだったが、駅の少し西で気動車の撮影に成功。姫路行き列車出発数分前にぎりぎり到着した。
なにしろ乗りそこねると次の列車まで1時間待たなくてはいけない。

14:24 定刻通りに播磨新宮駅出発。




 城山城の主要地をじっくり見て廻り、概要を掴むことが出来て満足感のある山行となった。




 とりあえず真夏を前に気合を入れた山歩きは一旦これで夏季休戦に入ります。
但し、夏の間も登りを沢歩きに充てて何度か半日程度のプランで歩く予定です。













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