「満開の龍野公園」 

紅葉谷〜觜崎の屏風岩 07年4月5日(木)

国土地理院地形図:「龍野」25000分の1を参照して下さい。

 06年11月30年に祇園嶽から鶏籠山へ縦走して龍野城へ降りてきたが、あの城跡一帯の龍野公園が今まさに桜が満開という情報を得た。
ちょうど休みで天気予報も完璧と条件が揃ったので迷わず3度目の龍野へ向かうことに。龍野公園で花見をした後はおおよそ昨年の縦走を逆に辿って
姫新線の沿線風景を撮影しながら城山城跡辺りで下山するというプランである。


7:20 JR本竜野駅出発

 いつもの始発で6時半頃に到着したが、駅と周辺で姫新線の列車撮影をしていたので
この時刻に出発となった。今日の目的の一つに姫新線撮影も兼ねているので駅で時刻表を
もらおうと思ったら、7時にならないと窓口が開かないことが到着後に分かったこともある。

 駅を出ると道なりにまっすぐに西へ向かう。4ヶ月ほど前に辿った道を逆に辿るだけなので
簡単だった。


7:28 揖保川河畔より鶏籠山と的場山、そして白鷺山を眺める

 揖保川河畔に出ると、この光景が目に飛び込んでくる。龍野へ来たなぁと
実感出来る光景だ。今日はとりあえず山歩きの前に山麓を巡る行程である。
山麓付近は殆ど未踏であり、どのような光景を観られるのか楽しみだ。
 龍野橋を渡って旧市街に入ると、それまでの交通量の多さがウソのような静寂に包まれる。
まるで時が止まったかのような空間だ。普段は山歩きの前後の街歩きは退屈なものだと
相場が決まっているが、龍野に限って言えばそれは当てはまらない。

 裁判所へ突き当たると右折。すぐに左折すると今日の最初の目的地である龍野城へ到着する。


7:44 龍野城到着

 桜が満開だが門が開いてない・・。と思ったら門の左の道から入れそうだ。
ちなみに車止めが門の下にあったので、車では入れないようになっていた。

 道を上がるとそこには感動の光景が広がっていた。
 快晴の元での満開という、まさに一年の中での一瞬の煌きの場に立ち会えたことは幸運だった。


 到着時には龍野城の庭園は自分以外誰も居らず、まさに静寂に包まれていた。もちろん時間を掛けてゆっくりと散策と撮影を楽しむ。
一人、二人と城内に来られるが、朝のうちは本当に静かに花見を楽しめる。

 花見といえば新人に場所を取らせて同僚同士で酒盛りをする光景が思い浮かぶが、静かに花を愛でるのが本来の「花見」ではないかと思う。
ついでにいえばゴミは全て持ち帰るべき。公共の場にはゴミ箱、灰皿も要らないと思う。


 訪れる人が皆、ただ笑顔になって桜を見上げていた。それ以外何も説明は不要だと思う。








 公園の職員が門を開けてくれたので、城の西側に出ることが出来るようになった。桜に漆喰の城壁が本当に映える。
ちなみに城のすぐ横は普通の住宅街になっている。窓の外がこの光景だとはうらやましい限り。



 約1時間かけて龍野城での花見を楽しんだ。
まだまだ先は長いので、そろそろ次の目的地へ向けて出発することにしよう。


8:45 龍野城を出発し、白鷺山方面へ

 庭園の北西隅にひっそりと登山口がある。動物によって庭園を荒らされないように
登山口にはネットが掛けられている。のれんのように潜って通るが、ザックからはみ
出している三脚が引っかかってしまった。

 すぐに山道は2方向に分岐するが、今日は鶏籠山はパスして龍野公園方面へ向かう。
鶏籠山南斜面を横切るように山腹道がしばらく続く。


8:50 紅葉谷分岐

 古城時代の遺構のものと思われる縦掘跡などが散見される山腹道をしばらく進むと、
紅葉谷への入り口に辿り着く。とりあえず紅葉谷は後回しにして龍野公園へ。


文学の小径

 龍野神社から赤とんぼ歌碑まで続く小径は「文学の小径」と呼ばれているようだ。
理由はよく分からない。
まだ観光客よりも地元の方が散歩されているのをよく見かける。時間が早いせいか
まだ屋台も開いていない。

 桜のトンネルの元を南へしばらく進む。


9:13 赤とんぼ歌碑

 文学の小径は赤とんぼ歌碑で終わる。前に立つとメロディーが流れ出すことで有名な
歌碑で、とりあえずメロディーを聴いておく。

赤とんぼ歌碑

 大正10年露風33歳の時、北海道トラピストより「樫の実」で発表しました。
ふるさとの思い出と幼き日の母の思い出を歌ったものと思われます。
また、歌碑五線譜は作曲者山田耕筰の絶筆です。

 満開の桜が両側に咲く車道をしばらく登ると三叉路に出る。車道の向こう側に見える丘が
白鷺山のようだ。


9:19 白鷺山公園、童謡の小径へ

 「文学の小径」の次は「童謡の小径」へ。随所で童謡を聴きながら散策できるという
趣向でどんなものなのかわくわくしながら登っていく。白鷺山は山というよりも丘陵という
表現がぴったりなくらいの低山だが、普通に散歩気分で歩くとちょっと一汗かく程度の
登りとなる。
 歌碑の前に立つとメロディーが流れ出す。これは「月の砂漠」で、これが最初かと
思ったが、帰宅してから調べると初っ端から一つ歌碑を見逃していたようだ。
自分は「月の砂漠」という曲があるのを知っているぐらいで特別な感慨は湧かないが、
もう少し上の世代の人が歩くともっと楽しめるのかもしれない。

 童謡の小径で聴ける曲は以下の通り・・・
(順番は西から東へ。国民宿舎赤とんぼ荘へ向かって歩いた場合)

1.「小さい秋みつけた」
2.「月の砂漠」
3.「みかんの花咲く丘」
4.「七つの子」 ←山頂で聴くことが出来る。
5.「叱られて」
6.「夕焼け小焼け」
7.「里の秋」

 なお童謡の小径の至るところで紫色のツツジがきれいに咲いていた。
桜にばかり目を奪われがちだが、こちらも充分に見応えがある。


9:35 白鷺山山頂  121.44m

 メロディーを聴きながら一登りしたところで白鷺山山頂に辿り着く。
整備し尽くされているので山という感じではないが、目立つところに四等三角点「日山」が
設置されている。基本的に雑木に囲まれて展望は無いが、テラスに上がると西方の
景観は開ける。
白鷺山山頂より西方の景観

 なんだか朝イチよりも雲が増えてきたような。

 この後山頂で「七つの子」を聴いている時に団体さんが登ってきて、一気に賑やかになる。
なんと九州発のツアーで龍野を訪れているという。もちろん龍野は行程の一部だろうが・・。
九州の人から見ると兵庫県でもツアーで訪れたくなるのだろうか。

 そうこうしているうちに下から「みかんの花咲く丘」のメロディーが絶え間なく聞こえてくる。
結果としてメロディーは来訪者の接近を知らせる役目を果たしている。混んできそうなので
そろそろ出発しよう。


 山頂を過ぎると後は終点まで下り一辺倒。白鷺山はラグビーボールを縦に半分に
切ったような形をしていて、童謡の小径はその尾根上を横切るように敷設されている。

9:50 白鷺山山頂南の展望台

 全展望というわけにはいかないが、南方は広く見渡すことが出来る。
残念ながら龍野の旧市街は木々に阻まれて見えない。それでも蛇行しながら
悠々と流れる揖保川は一見の価値があるだろう。


10:02 童謡の小径終わる。国民宿舎赤とんぼ荘前に到着。

 最初こそ聞き逃した結果になったが、それ以外の6曲はもれなく聴いて
童謡の小径の終点に辿り着いた。初めて白鷺山へやってきたが、なかなか楽しい
スポットだと思う。
 童謡の小径の終点前は国民宿舎赤とんぼ荘の駐車場になっている。ここか東山公園の国民宿舎で一泊するとより充実した龍野での時間となるだろう。
いずれは試してみたい気がする。


10:07 赤とんぼ荘前出発。「哲学の小径」へ

 赤とんぼ荘前からは白鷺山東斜面、西斜面へ続く道がそれぞれ伸びている。そのうち団体さんは東側へ下っていくが、自分は西側に伸びる「哲学の小径」へ進む。
なぜ「哲学の小径」という名前なのかという事前調査はしていなかった。期待感と共に緩やかな下りの舗装路を下っていく。

 しかしこの「哲学の小径」は遊歩道かと思ったら、一方通行の車道でもあったのだ。時折後ろから車がやってくる。一台やっと通れるくらいの狭い道なので
脇へと避けなければならない。「哲学の小径」を歩きながら思索に耽るつもりだった自分の目論見はご破算となった。


10:12 三木清の哲学碑

 小径を半ばくらいまで進んだところにあった。この哲学碑があるから「哲学の小径」だったのか。
三木清は名前を知っているくらいで詳細は知らなかった。哲学碑を含めて周囲で見られる碑文の全てを原文のまま掲載する。(磨耗のため読めない部分もあり)

 今日の国、自公政権の有り様が、どうしても性急で危なっかしく見えてしょうがない自分には、警鐘の意味を込めて掲載する意味があると思えるからだ。

三木清 レリーフ・歌碑・哲学碑

 清は明治30年市内揖西町小神に生まれ、旧制龍野中学、第一高等学校から京大哲学科、西田幾太郎門下に入った。ドイツに留学ハイデッカーに学び帰国して
名著「パスカルに於ける人間の研究」を著した。20年脱走した共産党員の友人に食事と衣服を与えたことが治安維持法に触れて投獄され、戦後9月26日獄死を遂げた。

怒について 三木 清

 今日、愛については誰も語ってゐる。誰が怒について眞剣に語らうとするのであるか。
怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
 切に義人を思ふ。義人とは何か、−−怒ることを知れる者である。
                                                「人生論ノート」より

三木 清 (1897年―1945年)

 揖西村小神に生まれた。龍野中学、第一高等学校を経て、西田幾太郎を慕い京都帝国大学に入って哲学を学んだ。1920年大学を卒業した。
1922年ドイツに留学し、■■ケルド、ハイデッガーについて学んだ。その頃ドイツに留学していた日本の社会科学者と■■■。1925年帰■し、
第三高等学校の講師となった。翌年「パスカルに於ける人間の研究」を出版した。1927年法政大学教授となって東京へ移った。この年から
学校での講義はもちろん執筆、講演等に新進哲学者として■■した。多くの青年学徒がその周囲に集った。1930年治安維持法違反のため
検挙され後執行猶予となったがその間に教職を去った。それ以後三木清はついに講壇に登らなかった。
 1937年に日華事変の起きるとともに、日本にますます暗い時代が来た。三木清は学者の良心の灯を消すことなく、たえず研究をつづけ■■
文筆の活動を行った。三木清の哲学者としての業績は哲学を講壇の狭い視野から解放して時代の切実な問題と結びつけたことにあった。
その多方面にわたる著作は死後出版された16巻の三木清著作集に収められている。
 1944年3月、ふたたび検挙されて警視庁および■多摩拘置所に留置された。そのまま終戦を迎えたが、釈放されることなく9月26日、病の
ために獄中で死んだ。48年8ヶ月の生涯であった。三木清の獄死を契機として治安維持法が撤廃されたと聞く。真理の探究にその一生を捧げ、
■が思想界に深い影響を与えた三木清を顕彰するため、われわれはこの碑を建立する。

                                             1964年 三木清の会

 国は信用できるものではない。ましてこの国は治安維持法などという稀代の悪法を制定していた前科すらあるからだ。
国を破滅させる戦争へ向かわせた一因として、治安維持法の影響は計り知れないものがあったと考えている。
時代は変わったとはいえ、この国の根底にあるものは変わっていない。情報隠蔽、捏造の代名詞である「大本営発表」が決して過去のものではないということを、
「隠蔽」、「捏造」、「偽装」といったニュースが今日も絶えないことが証明していると考えられないだろうか。
我々国民は余程国の動向に関心をもって注視していかないと、あらぬ方向に進むこともありうると考えなければいけないと思う。
今の世代が前の世代の残した「負の歴史」の遺産を負っていることを省みて、次の世代に新たな負の遺産を背負わせないようにする義務があるだろう。


 ちなみに自分は哲学には縁は無く、唯一の経験といえばローマ皇帝マルクス・アウレリウス著「自省録」を読んだことくらい。
半分も理解出来なかったが、座右の銘になった部分もある。機会があればぜひ一度頑張って読破されることをお薦めしたい。


哲学碑下の広場

 哲学碑の下にはこのようなほっとする空間がある。疲れた頭を癒すにはもってこいだと思う。「哲学の小径」を一旦離れて小休止を入れることにする。
芝生はきれいに手入れされてとても清清しい。すぐ下には学校があるようでブラバンの練習の音が聞こえてくる。

10:40 三木清の哲学碑出発

 いつの間にか昼前になっているではないか。これから山歩きもしなければいけないのでそろそろ出発することにする。
哲学碑から一般の車道まではさほど離れていない。しかし時々車が通るのが残念だ。現状は「哲学の小径」を生かしきれていない気がする。


 白鷺山公園で時間を過ごしている間に随分人出が増えてきた。交通量もかなり多い。最盛期の龍野公園の花見を楽しむ人で平日にも関わらず賑わっている。
これが休日だったらどうなるのだろう。ちなみに普段は無料と聞いている広大な駐車場は500円となっている。龍野へ来る時は姫新線に乗るというマイルールを
設定しているのが功を奏したと思った。


 朝歩いた文学の小径を北向きに辿ってきたところで、聚遠亭(しゅうえんてい)という庭園を見逃していたことを思い出す。
寄ってみたら既に多くの人で大賑わい。これでは撮影する気にならず、庭を素通りしただけに留めた。聚遠亭は次の機会にとっておくことにしよう。


11:10 紅葉谷道へ入る

 随分、前置きが長くなったが、ここからようやく山歩きに入る。聚遠亭までの喧騒がウソのようにひっそりと静まり返った山中はとても心落ち着く空間だ。
その名の通り新緑の紅葉がとても美しかった。春の紅葉谷もなかなか良いと思う。次はぜひ秋に訪れてみたい。昨年11月30日には的場山から降りてきて、
紅葉谷には入らずに鶏籠山へ登ったのだった。

 紅葉谷道は六甲の紅葉谷と同様、いやそれ以上に完璧に舗装階段によって遊歩道として整備されている。沿道には龍野古城時代のものだろうか、
侍屋敷跡や畑跡などの遺構が見受けられる。いろいろ楽しめる谷道だと思う。


11:22 両見坂到着

 緩くもなくきつくもない登り階段が延々と続くが、さほど長い距離を経ずに見覚えのある両見坂に辿り着いた。(写真左) ひとまず未踏の区間はここで終わる。
以前に觜崎の屏風岩から「寝釈迦」の景観を眺めたが、この両見坂はちょうど首に当たるところだ。これから釈迦の胸の部分に登ることになる。
両見坂でザックを下ろしてとりあえず一息つくが、木立を吹き抜ける風が冷たく、早々に出発することにする。

 今日最大の難関となる的場山への急登の始まりだ。(写真右) 実は白鷺山付近から的場山へは野見宿禰(のみのすくね)神社を経由したほうが近いのであろうが、
自分は相撲には全く関心がない(野見宿禰は相撲の始祖といわれているようだ)ことと、前回下りで通過した的場山からの急坂を登っておきたいという理由で遠回りしたのである。

 両見坂からはいきなりの急坂で、それまでの紅葉谷が単なる序奏だったというように一歩一歩でぐんぐん高度を稼いでいく。
振り返ると木立越しに鶏籠山がすぐに同じ高さに見えるようになる。的場山への急坂から見ると鶏籠山はかなりの鋭鋒に見える。


 両側にシダが見え出すと、木漏れ日が多めの明るい雑木林となる。この的場山への急坂の特徴は登るにつれて、徐々に緩やかになるということ。
両見坂出発直後が一番辛い。300mピーク手前になると岩が目立つようになり、振り返ると龍野と揖保川を見下ろせるようになる。
上手く言えないが、両見坂から的場山への急坂は山歩きの醍醐味を凝縮したような区間だと思う。


11:50 300m+ピーク到着

 的場山に達するまでに2つのミニピークがあるが、そのうちこの300m+ピークの展望が素晴らしい。的場山山頂へ上がってしまうと障害物が多いので、
このピークが的場山唯一の好展望の地といっても良いと思う。南と北の景観が少し距離を置いたところから見渡すことが出来る。
南側は山桜と新緑とツツジでいつになく極彩色の森を楽しむことが出来た。一方北側は揖保川が正面に横切り、奥には以前に訪れた觜崎の屏風岩のある鶴觜山がよく見える。

 今日のお昼はこの好展望の地で摂ることにする。ちなみにこれから的場山を皮切りに城山城跡までを逆縦走する予定だが、
その道中の展望の得られるところでは姫新線の列車を望遠撮影しながら歩いているので、ダイヤ調整のために待ち時間を挟んでいる。
よって普通に歩けばもっと歩行時間は短くなるということをお断りしておきたい。



「觜崎の屏風岩と姫新線の気動車」


ここから見ると觜崎の屏風岩の岩尾根が非常に急峻に見えるが実際は簡単に登れる。「觜崎の屏風岩を巡る」をご参照下さい。

12:50 300m+ピーク出発

 昼食も摂ったし、思い通りの写真も撮れたしということで、そろそろ重い腰を上げて300m+ピークを出発することにする。
平日昼間の姫新線は1時間に1本で、上りが通ればその約10分後に下りが通るというパターンである。その他の50分の間に次の展望地へ向けて山歩き。これの繰り返しとなる。

 午前中は殆ど快晴だったのが、雲が目立つようになってくる。天気の区分では「晴れ」には違いないが、上記のような望遠撮影では日が当たらないとモロに写真に影響するので
雲行きがたいへん気になるところだ。


13:05 的場山山頂

 せっかくの好展望のはずが諸々の障害物で囲まれてしまっている的場山山頂へ到着。但し、北側のこれから縦走する山々だけはよく見渡せる。(写真左)
次の姫新線好展望の地は382.7mピーク付近。列車が通るまでに到着したいので的場山山頂はすぐに出発する。

 これから城山城跡まではいくつものアップダウンを繰り返すが、382.7mピークまではまだ緩やかだし行程差も少ない。(写真右)
前回の縦走時のレポで触れているので、縦走路道中の様子は簡略化したい。


13:30 410m地点付近

 縦走路中、的場山と鶏籠山をまとめて眺められる唯一の展望地。前回は2枚の写真に分けたが、今回は広角レンズ(10-22mm)で一枚にまとめることが出来た。
前回同様、なかなか空気が澄んでいてとても心地良い。
 ここで3人パーティーとすれ違う。この後、2回ほど縦走中のパーティーとすれ違う。前回は誰とも会わなかったが、春山シーズンを皆さんも楽しんでおられるようだ。

 ここから姫新線展望地の佐野分岐までは殆ど高低差が無い。列車通過まであまり時間が無いので小走りで駆けつけた。


13:43 佐野分岐到着

 登りは通過してしまったようだが、下り列車にはなんとか間に合った。鉄道写真のほうは別項でまとめる予定なので、ご興味のおありの方はそちらをご参照下さい。
ここは新宮から觜崎付近までを広く見渡すことの出来る好展望地だが、送電線が遮ってしまっているのが非常に残念だ。望遠撮影だとフレームアウトできるので問題ないが。

14:00 佐野分岐出発

 状況によってはここから下山することも考えていたが、まだ時間があるので予定通り城山城跡まで縦走することにする。
撮影後送電線鉄塔の基礎部分をベンチ代わりにして小休止。のどを潤してから出発する。


14:07 382.7mピーク通過

 佐野分岐から382.7mピークはさほど離れていない。ここの三角点は今日の行程中最後のものとなる。
ピークは雑木に囲まれて展望は無いが、ピークを過ぎてすぐに展望が開ける。城山城跡までのこれから歩く尾根を一望出来る。
なかなか良い景観ではあるが、今日最後の難関のアップダウンが見えないところで待ち構えている。


 382.7mピークを過ぎると一旦280m鞍部まで100mほど高度を下げる。 そしてそこから再び次の389mピークまで100mほど急上昇。
この登りは砂交じりの急坂で非常に滑りやすい。特に城山城跡から歩くと下りで通過することになるが、充分に腰を落として慎重に下る必要があるところだ。


14:30 389mピーク到着

 ようやくの思いで389mピークに到着。休憩がてら姫新線撮影をする。觜崎の屏風岩付近に充分日が当たってなかなか良い写真が撮れた。

 ※ この付近は時間の都合で自分撮りする回数を減らしています。


14:50 389mピーク出発

 389mピークを過ぎると城山城跡(亀山)は既に目前。もう鞍部へ下る必要もなく、殆ど平坦な尾根道を辿るだけで城跡へ突入できる。
しかもこの区間は背の低いブッシュの尾根道で景観も抜群。新龍アルプスの縦走路の中で最も気持ちの良い区間ではないだろうか。



14:56 城山城跡最南部付近の展望地
 
 平坦で好展望の尾根道は途中から森に入り、すぐに南側に視界が開けるところに出てくる。
これまでに歩いてきた的場山から始まる山々を一望しながら、心地良い達成感に浸ることが出来る。
 ここまで来ると既に城山城城内へ入ったも同然。すぐに城山城主郭に到達出来る。


15:00 城山城跡主郭到着 (標高約400m)

 4ヶ月ぶりに城山城に戻ってきた。とりあえず三基墓にお参りを済ませる。城内の散策もしたいが、今日は時間に余裕がないのですぐに出発する。
ここからは下野田へ通じる「兵糧道」が最短の下山ルートとなる。「兵糧道」は全くの未踏のトラックでとても楽しみである。
三基墓付近は杉の落葉や倒木のおかげで踏み跡が不明瞭で、道標が無いと分岐が分かりづらい。「兵糧道」は三基墓のすぐ南から始まっている。

 ※ 城山城の歴史については06年11月30日のレポをご参照下さい。


「兵糧道」

 兵糧道は基本的に谷道に終始するトラックだった。
城山城主郭直下から始まる細い谷に沿って下っていく。滑りやすそうなところには
ロープが張られている。

 麓から兵糧を運びあげるのは重労働だったと思われる。幕府軍の攻撃を前にして
城兵がどのような心境で兵糧を運んだのだろうか。


15:14 見張り岩 (標高約350m)

 谷道が一転して視界が開けてくる。名前の通り見張り台に最適の岩が崖上に鎮座している。
ここからだと麓の幕府軍の動向が手に取るように分かっただろう。

 ここで今日最後の姫新線望遠撮影をする。正面に觜崎の屏風岩を見下ろすことが出来るので、
撮影地として本当に最適だ。

 ところでここでびっくりしたことを一つ。見張り岩のすぐ横に骸骨が!?
人骨なら警察に届けなければいけないが、イタチなどの小動物のものと思われる。
すぐに人のものではないと分かったがちょっと心臓に悪かった。



「觜崎の屏風岩と姫新線」 城山城跡見張り岩より

改めてユニークな山塊だと納得させられる景観だ。それにしても撮影を楽しくさせてくれるのは、明るい原色の国鉄色を
ほうふつとさせる姫新線の赤い列車だろう。これがもし新快速のような地味な色なら風景と同化してしまうだろうけど。


15:30 見張り岩出発

 とりあえず撮りたい写真は全て撮ったので、下り列車を待たずに下山を開始する。谷間にある見張り岩は日が当たらず、じっとしていると寒いのである。
見張り岩からは一旦北斜面の山腹を辿るが、すぐにジグザグに谷に下りていく。後は沢沿いにやや荒れたトラックを慎重に下っていく。
ちなみにこの区間は日も射さず、沢も水が少なく、あまり良い雰囲気ではなかったので、写真を撮る気にはならなかった。
今度は水量の多い時期に登りで「兵糧道」を登ってみようと思う。


15:50 「兵糧道」下野田登山口到着

 下流で堰堤が見え出すと途端に広い林道になって下野田登山口に到着。(写真左) 登山口には案内板や標識があって、ここから山道が始まることは見て分かるが、
登山口に辿り着くまでに道標が一切無いので、下調べ無しに辿り着くのは難しいのではないだろうか。登山口は觜崎から見ると栗栖川(揖保川支流)対岸の森の中。(写真右)
これでは遠くから見ても分からない。

 それはともかく登山口付近の桜に西日が当たる様はこの時期ならではの光景だった。

 登山口付近では地元の子どもたちが遊んでいた。山歩き姿の自分を見て気さくに話しかけてくる。本竜野駅から歩いたことを言うと驚いていた。
やはり子供は学校が終わったら外で思い切り遊ぶのが本来の姿ではないだろうか。塾では学べないことがいっぱいあったと、自分の子供時代を振り返ってみて思う。
自分は子供の頃から基本的に勉強嫌いで、貴重な放課後の時間を割いてまで塾へ行くなど考えられなかった。けっこう親もやりたいようにさせてくれたと思っている。

 登山口のすぐ側の橋(歩行者専用)を渡って栗栖川東岸へ。そこで地形図を広げて東觜崎駅までの街路を確認する。
すぐ北で東へ向かう小道に入り、後は道なりで馴染み深い「觜崎の屏風岩」付近へ辿り着けそうだ。

 この後、まっすぐ東觜崎駅へ向かわずに、「觜崎の屏風岩」付近のカーブで姫新線の気動車を撮影した。
よって実際は東觜崎駅から下野田登山口まで1時間30分もかからないので念のため。普通に歩くと30分あれば辿り着けそうだ。


17:20 JR東觜崎駅到着

 姫路行き列車の到着に間に合うように撮影時間を調整。発車10分前に東觜崎駅に辿り着いた。
向かい合うクロスシートの窓際に座ることが出来たが、向かいの人と膝がぶつかり合うほど狭い。それでものどかな沿線風景を楽しんで家路に着く。
次の龍野はどこを歩こうかなぁ。


今日の行程の断面図です。




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